1913年9月30日、各国の新聞がルドルフ・ディーゼルの名前を見出しに掲げた。世界で最も有名な発明家ディーゼル博士が、ベルギーからイギリスへと渡る客船から姿を消し、死亡したとみられるという。彼の身にいったい何が起きたのか?
ルドルフ・ディーゼルは極貧から身を起こして巨万の富を得た、まさに立志伝中の人物だ。パリの貧しいドイツ系移民の家で生まれ育ち、あらゆる苦難を乗り越えて、「ディーゼルエンジン」を開発。その発明は、衝撃的な技術革新として瞬く間に称賛を勝ち取り、ウィンストン・チャーチルの心をも奪った。そして、石油王ジョン・D・ロックフェラーやドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と反目することになる。働く貧困層の暮らしをよくしたいと願って生み出したエンジンだったが、人類初の世界大戦の瀬戸際で軍事的に応用され、その価値がいっそう高く認められることになってしまった。
技術者としての彼の専門知識は、世界の権力者たちによる争奪戦を巻き起こし、ヨーロッパが戦乱に陥る前年に起きた失踪事件の影に何者かの魔の手を疑う声も上がった。ここで歴史家ダグラス・ブラントは、ディーゼルのたどった運命に新たな視点で迫っていく。本書は、科学、歴史、そして南北戦争後のアメリカの犯罪実録の要素をあわせ持つ伝記であり、事件の謎が初めて解き明かされていく。
ルドルフ・ディーゼル(ドイツ人の発明家)/ヴィルヘルム2世(ドイツ最後の君主)/ジョン・D・ロックフェラー(アメリカの石油王)/ウィンストン・チャーチル(イギリス海軍大臣[当時])/オットー・フォン・ビオスマルク(ドイツ帝国宰相)/ウィリアム・トムソン(物理学者、ケルヴィン卿)/アルフレッド・ノーベル(発明家、ダイナマイト王)/ハインリヒ・フォン・ブッツ(ドイツの実業家、MAN社取締役)/フェルディナント・フォン・ツェッペリン(発明家、飛行船の父)/アドルファス・ブッシュ(アンハイザー・ブッシュの創業者、ビールの帝王)/ジョン・“ジャッキー”・フィッシャー(イギリス海軍の英雄)/トーマス・エジソン(発明家)/アルフレート・フォン・ティルピッツ(ドイツ帝国海軍大臣)/サー・チャールズ・パーソンズ(蒸気タービンの発明者)/フーゴー・ユンカース(技術者、ユンカースの創設者)/ロアール・アムンセン(極地探検家)

© Jesse Dittmar

原題:The Mysterious Case of Rudolf Diesel
Genius, Power, and Deception on the Eve of World War I
by Douglas Brunt
ダグラス・ブラント(Douglas Brunt)「第一次世界大戦へと向かう政治指導者、発明家、そして強欲な実業家をめぐる、小説顔負けの歴史ものとして夢中で読んだ。同時に、現代史の中で最も不可解なセレブ失踪劇として貪り読んだ。完全に心を奪われる一冊」
――クリス・ボジャリアン(作家、『助産婦が裁かれるとき』[東京創元社]、『The Lioness』の著者)
「ウォルター・アイザックソン(伝記『スティーブ・ジョブズ』[講談社]著者)とシャーロック・ホームズの要素を兼ね備えたこの本は、刺激的な歴史の中に眠る20世紀最大の事件のベールを引きはがす」
――ジェイ・ウィニック(歴史家、『1944: FDR and the Year That Changed History』の著者)
「ページをめくる手が止まらない犯罪スリラーでありつつ、第一次世界大戦を招きその後の展開を左右したパワーについて重要な新見解をも示している。多くの人が知る人物について非常にあざやかな手法で語っているが、事件そのものは犯罪実録のファンや歴史家たちにも見過ごされてきた――今日に至るまで。20世紀の歴史に新たな一章が加わった」
――ダン・エイブラムス(テレビ司会者、作家)
「まるで緊張感あふれるスリラー小説のような、読み始めたら止まらないノンフィクション。洞察に満ち、サスペンスに満ち、大いに楽しめるこの作品、あなたも魅了されること間違いなし!」
――ブラッド・ソー(作家、『ブラック・リスト 極秘抹殺指令』[SBクリエイティブ]、『〈亡霊国家ソヴィエト〉を倒せ』[早川書房]の著者)
目次
[第1部] 戦争とオイルエンジン 1858〜1897年
第1章 国際人としてのアイデンティティー
第2章 ロンドンでの体験
第3章 ヨーロッパの新しい帝国
第4章 誰のおかげで大きくなった?
第5章 石油がゲームをひっくり返す
第6章 理想の追求
第7章 給料より大事なもの
第8章 ヴィルヘルム2世、海軍にかける野望
第9章 ディーゼルパワーの誕生
[第2部] はばたくディーゼル 1897〜1910年
第10章 ケルヴィン卿、口火を切る
第11章 グランプリ目前のつまずき
第12章 成功の光と影
第13章 眠れる巨人について考える
第14章 牙をむく旧勢力(オールドハウス)
第15章 カイザー、「リスク理論」を採用
第16章 武力と武力のはざまで
第17章 新時代の夜明け
[第3部] 最高傑作 1910〜1913年
第18章 ルドルフ、単独行動をとる
第19章 イギリス海軍一行、セランディア号に乗る
第20章 海軍大臣の秘策
第21章 西方の大いなる光、アメリカ
第22章 高まる圧力
第23章 最後の数カ月
第24章 蒸気船ドレスデン号 1913年9月29日
[第4部] 失踪劇
第25章 世界の反応
第26章 有力な仮説
第27章 オペレーション・ルドルフ・ディーゼル
第28章 痕跡
エピローグ おわりに――ディーゼルエンジンがたどった道
余話 MAN社の秘密 第一次世界大戦前夜の戦艦用ディーゼルエンジン
プロローグより
1913年10月11日。
海面に何かが見えた。
オランダの蒸気式水先船クルツェン号の船員たちは、その「何か」に小舟で近づいた。ここは北海に面したスヘルデ川の河口近くで、黒いさざなみの下にあるものが、はっきりと船員たちに見えてきた。
人の死体だ。
ひどく腐敗が進んでいるが、その体をいまだに包んでいる衣服が上等なのは船員たちにもわかった。遺体を舟に引き寄せ、ポケットにあった小物4つを取り出し、朽ちてゆく亡きがらは再び波に委ねた。所持していたのは小銭入れ、小型ナイフ、眼鏡ケース、そしてエナメル塗りのピルケース。蒸気船は予定通りオランダの港町フリシンゲンに寄り、港湾当局に遺体を発見したと報告し、所持品を引き渡した。
クルツェン号から報告を受けた役人たちの頭に真っ先に浮かんだのは、欧米の主要都市の新聞すべてで報じられていた、ある行方不明事件だった。当局は失踪者の息子に電報を打ち、その翌日、息子がドイツからフリシンゲンに到着した。オイゲン・ディーゼルは品々をひと目見て、父ルドルフのものであると認めた。
ルドルフ・ディーゼルは、その名を冠した革命的なエンジンの発明者であり、2週間ほど前に、ベルギーからイギリスに向かう夜行フェリー上で、姿を消した。旅客フェリーの船長は、ディーゼル氏が行方不明になったと発表していた。どの国の司法権にも捜査権にも属さない公海上での事件だった。遺体がないので検死報告書もない。海軍による審理もなく、船会社への聴取さえなかった。本格的な捜査はいっさい行われなかった。
ルドルフ・ディーゼルは、産業の勃興期に生まれ育った。アメリカでは「金ぴか時代」と呼ばれ、フランスでは「ベル・エポック」と呼ばれる時代を経験した。経済は繁栄し、各国の都市は空前の人口増加を見た。少年時代のディーゼルは、貧しい移民としてこの急拡大を目にした。家族はヨーロッパ各地を転々としながら細々と生計を立てていたが、親戚のひとりが少年の才能に気づき、援助の手
を差し伸べた。
12歳のとき、ディーゼルは人並みの教育を受ける機会に恵まれ、その好機を最大限に生かした。生まれ持った能力と悲壮な覚悟で優秀な成績を修め、20代前半にはドイツ屈指のエンジニアになった。同時代の科学界にはエジソン、テスラ、ベル、マルコーニ、フォード、アインシュタイン、ライト兄弟らがいて、テクノロジーの歴史に不滅の名を刻んだ。この天才たちは科学に計り知れない発展をもたらし、新しい産業を興し、旧来の産業を破壊し、伝記本や映画の主人公となり、無数の人々の人生
をその肩に背負った。
歴史を通じて、技術的な進歩はしばしば、その開発者たちが想像もしなかったかたちで、また望みもしなかったかたちで、世界に受容されていった。ディーゼルと同時代の発明家たちは、経済がまだ地方に分散していた社会を大量生産の社会へと変え、蒸気の力から石油へ、人間同士の白兵戦から機械化された戦闘へと時代を変えた。政治学上の帝国も、企業帝国も、自らの優位を固めるために革新的な技術を取り入れ、開発者たちの苦心の成果が思いも寄らない破壊や恐怖を引き起こすこともあった。
――中略――
1913年にルドルフ・ディーゼルが姿を消すと、ニューヨークからモスクワに至るまで主要新聞は軒並み一面でこの偉大な科学者の失踪を報じた。自ら海に身を投げたという見方がある一方で、他殺を疑う新聞もあり、容疑者の筆頭には地球上で最も有名なふたりの人物の名前が挙がった。
まず疑われたのはドイツ皇帝(カイザー)のヴィルヘルム2世とその配下の者だ。ディーゼルがイギリスと取り引きをしたという噂に激怒したカイザーが、発明家の暗殺を命じたとする仮説が立てられた。「発明家、海に落とされる イギリス政府への特許売り渡し阻止のため」という見出しの報道もあった。
もうひとり、ディーゼルの死の背後で暗躍したという疑いをかけられたのは、世界一の大富豪ジョン・D・ロックフェラーだ。ロックフェラーとその一派は、ディーゼルの革命的なテクノロジー―ガソリンなど石油由来の燃料を必要としないエンジン―を、彼らのビジネス帝国を脅かす眼前の危機とみていた。ルドルフ・ディーゼルは「巨大石油トラストの手の者に殺害された」とする見出しもあった。
天才発明家ルドルフ・ディーゼルは、大いなるミステリーの主人公になった。わずか1年前の1912年、世界の重要人物たちはディーゼルの画期的なテクノロジーにこぞって拍手を送った。トーマス・エジソンはディーゼルエンジンについて「人類が成しえた最も偉大な業績のひとつ」と断言した。この発明の価値をいち早く認め、支持していたウィンストン・チャーチルは、ディーゼルエンジン搭載の貨物船を「今世紀で最も完璧な海の傑作」と絶賛した。高名なイギリス人ジャーナリストのW・T・ステッドが「世界の偉大なマジシャン」と評したそのルドルフ・ディーゼルが、消えてしまった。
産業化時代においては、エンジンなしでは何も動かない。エンジンは国家を動かす心臓であり、ルドルフ・ディーゼル以上に既存の秩序を破壊した発明家はいなかった。まったく皮肉なことに、ルドルフ自身は、自分の生んだエンジンがもたらした社会の進み方を忌々しく思っていた。都市部への経済の集中に異を唱え、石油独占企業への世界的な依存を嫌い、機械化された戦闘を嫌った。コンパクトで経済的な動力源を開発したもともとの目的は、熟練工階級を活性化させ、産業化時代の工場労働者を解放することだった。どの国にもだいたいある天然資源を燃料とするエンジンを思い描き、地球を覆う汚染物質の霧を晴らすようなクリーンなかたちでそれを実現させた。
世界を変えようとしたルドルフ・ディーゼルの奮闘は、20世紀において最も重要な物語のひとつなのだが、たいていの人にはまず知られていない。エンジンは生き残り、何十年にもわたって広まり続けたが、エンジン設計の基本的なコンセプトは今日でも、ディーゼルが1897年に最初に発表したものと驚くほど変わっていない。
しかし、彼の存在は、まるで誰かが意図したかのように歴史から消え去った。あまりにも見事に消えたので、「Diesel(=ディーゼル)」という単語の始まりはしばしば小文字のdで誤ってつづられる。フォードを「ford」と書く人間などいないのだが。クライスラー(Chrysler)やベンツ(Benz)もそうだ。
世界中の人々が今日、「ディーゼル」と記されたもののそばを1日に何度となく行き交っている。列車の側面や船のエンジン、ガソリンスタンド、そして5億台のディーゼル車のどれかのそばを。だが、その単語が、ある人物の名前だと知る人はほとんどいない。その人物が貧しい移民から身を起こしたことも。ロンドンのスラムから逃れるチャンスをかろうじてつかんだことも。資本主義の厳しさを肯定していたことも。搾取が進む時代にあって、平和、平等、労働者階級、クリーンな環境、人間的な労働条件のために闘ったことも。エンジニアたる者、科学者としてだけでなく社会理論家としての役割があるという信念を持っていたことも。
ディーゼルの非凡な才能は、一国の皇帝や実業界のドンとの衝突を招いた。この衝突は結果として世界大戦の行方や近代社会の命運を左右したが、彼らの人生がどう交錯したのか、いまだに歴史の中で認識されていない。第一次世界大戦へと向かう四半世紀を理解するうえで、鍵となるのは4人の人物だ。ジョン・D・ロックフェラー、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ウィンストン・チャーチル、そして――これまで見落とされてきた―ルドルフ・ディーゼルである。第一次世界大戦までの数十年にわたる彼らの足跡をたどり、従来は無関係とされてきた事実をつなぎ合わせれば、歴史の謎は解けて、ルドルフ・ディーゼルの運命が明らかになるはずだ。
失踪前日の1913年9月28日、ディーゼルは妻のマルタに手紙をしたためた。イギリスへ向かう客船「ドレスデン号」に乗るまでの最後のひとときの中で、彼はこう書いている。「私がどれほど君を愛しているか、わかるかい? どんなに遠く離れていても、君にはきっとわかるだろう。まるで無線電信機の受信器が震えるように、君の中でやさしく震える、私の愛が」
その翌日、ディーゼルは消えた。彼の失踪や遺体発見を伝えるニュースは、しばらくは新聞の一面を飾ったが、世界を揺るがす大事件の数々に押しのけられていった。時は地球規模の戦争の開戦前夜。やがて32カ国が参戦し4000万人が死傷する大戦が始まる。ディーゼルの最後の数日間に彼とかかわった人々がどう行動したのか、その捜査は打ち切られた。失踪から数週間の間に出てきたつじつまの合わない情報が何を意味するのか、その謎を解くことをマスコミも諦めた。ディーゼルの自殺説が有力視されてからわずか数カ月後に、あらゆるニュースを蹴散らす戦争の惨禍が始まった。ルドルフ・ディーゼルは世界から忘れ去られた。
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