■第1章 空売りの歴史
空売りは新しい現象ではない。その歴史はオランダ共和国で株式市場が創設された1500年代までさかのぼることができる。当時の投資家はすでに株を買って保有するだけでなく、空売りもできることに気づいていたのである。
多くの経済大国の例にもれず、オランダ共和国も貿易の役に立つ海岸を確保していた。そして貿易の伸びを資金面で支えるために株式市場を創設した。当時の人気銘柄のひとつは、1602年に設立された東インド会社だった。
オランダの投資家は空売り以外にもオプション、ユニット投信、デット・エクイティ・スワップ(債務の株式化)など、新商品を次々と生み出していった。当時の最も有名な空売り投資家のひとりに、実質的な「売り崩し」を発明したアイザック・ル・マーレがいる。これは行き詰っている銘柄に狙いを定めて集中的に売って株価を下げ、落ち込んだところで買ってから株価が急騰するような噂を流すという手法である。
しかし、大ブームに沸いたオランダ共和国も、ほかの資本主義の波と同様の結末を迎えた。それもただ倒れたというよりは、雷に打たれたと言ったほうがよいだろう。マーケットは1610年に崩壊し、投資家は非難の矛先を空売り投資家に向けた。株価が下がることで儲ける彼らが、マーケットに売り圧力をかけたのではないかと責めたのである。
このような流れを受け、歴史上何度も行われていることだが、オランダの株式取引所も空売りを禁止した。そして、これもまた繰り返されていることだが、禁止令は長くは続かなかった。投資家は別の方法を見つけたのである。
ちなみに、1720年代にフランス市場が暴落したときも、空売り投資家がやり玉に挙がり、空売りは非合法化された。面白いことに、ナポレオンは空売りを国家への反逆だと考えていた。マーケットが不安定では戦費の調達が難しいからである。フランスでこの禁止令が解除されたのは1880年代に入ってからだが、実際にはそれ以前にも空売りはかなり行われていた。
泥棒貴族
アメリカでもオランダ同様、空売りはすぐに非合法化された。
ここで、アメリカが1850年代まで実質的な第3世界だったことを思い出してほしい。経済は極めて不安定で、ブームと崩壊の循環を繰り返していた。投機を制圧するため、1812年にニューヨークの議会は空売りを禁止したが、当時のニューヨーク証券取引所は規模が小さかったため、この影響はほとんどなかった。例えば、1830年3月16日の出来高はわずか31株だったが、これが特に珍しいというわけではなかった。
1850年代末になると、アメリカでも空売りの禁止は解除され、当時の投機家に歓迎された。アメリカ経済は力強い成長を遂げていたが、株式市場の規模はまだ小さかったため、投機家は簡単にマーケットを動かすことができたのである。
トレーディングを簡単にする新しい技術も登場した。1840年代の電報の発明によって、アメリカ国内のどこからでもトレーディングが可能になり、1860年代には大西洋横断ケーブルが完成してヨーロッパの投資家も容易にアメリカ市場に参加できるようになった。ニューヨーク証券取引所の直近の株価を知らせるティッカーテープが発明されたのもこのころだった。
アメリカ経済と株式ブームの拡大において大きな役割を果たしたのは、鉄道だった。鉄道建設には莫大な資本が必要で、それを集めるために抜け目のない資本家は知恵を絞った。
大体において競争心が非常に強いこれらの投資家は、儲かるとなれば何にでも手を出した。そして莫大な富を築いたトップクラスの資本家は、泥棒貴族と呼ばれるようになった。
最初にこの名称で呼ばれるようになったひとり、ダニエル・ドリューは文盲だったにもかかわらず、空売りのエキスパートで、「買い占め」を得意としていた。マーケットの株をほとんど買ったうえで、自由に株価を操っていたのである。
例えば、ドリューが株価を操作して相場を上げると、値下がりで儲ける空売り投資家にとってはチャンスになる。しかし、ドリューが買い占めているため、買い戻そうにも株がない。これは空売りした者にとっては破滅的なダメージになりかねない。ドリューの好きな言葉のひとつに「他人の物を売った人間は、買い戻すか牢屋に入るしかない」というのがあるが、これは間違いなく当時のダーウィン主義(無能な者は死ぬ)と言えるだろう。
1854年にドリューはエリー鉄道に150万ドルを貸し付けると、少しずつ同社の支配権を握っていった。経営力を欠いていた同社の株価は数回暴落していたが、ドリューはなんとここでも空売りをして莫大な利益を上げていたのである。
あるときドリューは、空売りで一山当てたいと考えていたジェイ・グールドとジム・フィスクの2人と知り合った。グールドは意欲満々の起業家で、最初に手がけた皮なめし工場を成功させたあと皮の先物投資を始め、1818年には21歳にして大富豪になっていた。
一方、ジム・フィスクはウォール街で頭角を現す前はウェイターやサーカスの切符のブローカーなどで食いつないでいたため、「ウォール街のバーナム」などと呼ばれていた(訳注 バーナムはアメリカの興行師でサーカス王)。
1867年にドリューが亡くなると、グールドとフィスクがエリー鉄道の支配権を握った。しかし、2人にとってこの会社は貯金箱でしかなく、同社の資産は次々と浪費されていった。
泥棒貴族と呼ばれた連中は、政界にも顔が利いた。例えば、グールドはニューヨーク市を牛耳っていたギャングのタマニー・ホール派と同派出身の人気政治家ボス・トゥイードとも親しかった。この時代、賄賂はビジネスの通常コストになっていた。グールドはさらに新聞社のニューヨーク・ワールドまで買収したが、これは彼の事業を誇大宣伝するための巧妙な方法だった。
鉄道の経営以外に、グールドは投機も行っていた。金のマーケットをほぼ買い占めて1000万ドル儲けたこともあり、このときは投資銀行数行が破綻した。この件でニューヨークの群衆に襲われたグールドは、それ以降必ず護衛をつけるようになった。1872年、グールドはエリー鉄道から追われ、同じ年にはフィスクもかつての愛人の恋人に撃たれて命を落とした。
18世紀の金融界が、制限などない自由参加の場だったことは間違いない。例えばアメリカン・スチール・アンド・ワイヤー・カンパニーの社長だったジョン・ゲーツは事業の不調を理由に労働者の一時解雇と工場の閉鎖を発表し、自社株を空売りした。そして、株価が60ドル代から30ドル代に下がったところで買い戻し、業績が好転したと発表したのである。工場は再開され、労働者も再雇用された。もちろん30ドル代で買い戻したゲーツは大きな利益を手にしたのだった。
リバモア
20世紀に入ると株式市場は拡大し、個人で株価を操作するのは難しくなった。また、買い占めを禁止するなどの規制も増えていった。
しかし、それでも空売りによって巨大な富を築いた伝説のトレーダーがいた。そのうちのひとりであるジェシー・リバモアは1877年にマサチューセッツ州で生まれ、14歳で家を出るとペイン・ウェバーで働き始めた。株価を黒板に書き出すだけの仕事は面白くはなかったが、これが彼にとって絶好の学びの場になった。そして毎日株価の動きを見ているうちに、この変動を利用して儲けることができないかと考えるようになったのである。
リバモアの時代には株価の情報がほとんどなかったため、投資家は噂によって行動していた(噂がでっち上げられるケースも多かった)。また、マーケットの変動も激しかった。
しかし、リバモアは噂には耳を貸さず、株価の変動のみによって儲けようと考えた。抜群の記憶力と計算力を持っていたリバモアは、自分が追っている銘柄の過去の動きをすべて記憶しており、儲かるパターンを見極めることができた。つまり、実質的なテクニカル分析を行っていたことになる(テクニカル分析の詳細は第11章参照)。
リバモアは買い持ちと空売りのどちらかに特化するのではなく、利益の大きいほうという基準で2つを使い分けていた。彼が行った有名なトレードのなかには、空売りもいくつか含まれている。1906年には、ユニオン・パシフィック鉄道を空売りしたあと2〜3カ月してサンフランシスコ地震が起こり、株価が暴落した。このトレードで25万ドルを儲けたリバモアは、その1年後にも株価が割高になっていると見て、大量の空売りを行った。そして1907年に相場が崩壊すると300万ドルの儲けを手にしたのだった。
リバモアは暮らしぶりも贅沢だった。ニューヨーク郊外のロングアイランドに邸宅を構え、300フットのヨットでウォール街に出勤していた。彼はウォール街ですぐに頭角を現し、「ボーイ・プランジャー」(無鉄砲な少年相場師)などと呼ばれていたが、敵も多かった。そのうちのひとりはリバモアが1907年の恐慌で大儲けしたことに腹を立てていた(恐らく羨望も含まれている)J・P・モルガンだった。
ただ、リバモアが常に勝者だったわけではない。彼は生涯に4度破産しており、例えば1915年にはいくつかのトレードの失敗で200万ドルの債務を負った。しかし、その2年後には再び株で儲けてすべて返済している。
リバモアは1929年にも大規模な空売りで莫大な利益を手にしている(その額は1億ドルとも言われている)。ただ、彼が暴落や不景気の原因だと考える人たちも多く、殺害の脅迫を受けることも少なくなかったため、常時ボディーガードを引き連れていた。
リバモアは1934年に再び破産した。このときも彼はすべての借金を返済し、投資顧問会社まで設立したにもかかわらず、1940年に自殺してしまったことは興味深い。
リバモアの投資理論への貢献のひとつに、1923年に書かれた彼の伝記ともいえる『欲望と幻想の市場』(東洋経済新報社)がある。この本には数々の素晴らしい投資理念が述べられているが、そのなかのいくつかを紹介しよう。
利益はほっておいても大丈夫だが、損失はそうはいかない。
株式マーケットで取るべき道は、ブルサイドでもベアサイドでもなく、正しいサイドがあるのみ。
投機家の最大の敵は自分のなかにいる。希望と恐怖は人間の本質から切り離すことはできない。しかし、投機を仕掛けたときマーケットが反対に動くと、どんな人でも「今日で最後」(明日は好転する)と期待して損失を膨らませていく。逆にマーケットが期待した方向に向かっているときは、明日はすべての利益を失うのではないかという恐怖にかられ早々に手仕舞ってしまう。恐怖が手に入るはずだった利益を遠ざけてしまうのである。成功したトレーダーは人間の本性ともいえるこの衝動と戦い、自然な感覚とは逆の道を選んできた。損失が膨らんでいるときは好転を期待する代わりにダメージの拡大を恐れ、利益が積みあがっているときには反転を恐れず突き進んできたのである。これは普通の人がやっている株のギャンブルとはまったく違う。
噂で行動してはいけない。
「ザ・パーク・ベンチ・ステーツマン」
もうひとり有名な空売り投資家に、バーナード・バルクがいる。1870年に労働者階級に生まれたバルクは大学を卒業するとウォール街の企業に雑用係として雇われた。よく働くバルクは、短期間でニューヨーク証券取引所の会員権を持つウォール街のA・A・ハウスマン&カンパニーのパートナーに上り詰め、30歳になるころには大金持ちになっていた。
1901年、バルクは有名な空売りトレードのひとつを行った。当時、アルガマメーテッド・カッパー・カンパニーが銅市場を買い占めて価格を上げ、ライバルを排除しようとしていた。バルクは、価格が上がれば需要が縮小するだろうが、このマーケットを買い占めるのは難しいと考え空売りをした。読みは当たり、バルクはこのトレードで70万ドルの利益を上げた。
バルクは長期にわたって空売りを擁護する論文を集めており、1913年にそれらをまとめた『ショート・セールス・アンド・ザ・マニピュレーション・オブ・セキュリティース(Short Sales and the Manipulation of Securities)』を出版した。ただ、バルクの空売りが株価を下げていると非難されることも多く、空売りの関与について議会証言も控えていたため、この本ではペンネームを使っている。
バルクはこの本が空売りを規制するアメリカ政府の圧力を多少は和らげることを期待して株式市場以外で空売りに相当する実例を詳しく紹介している。建設業者は完成前に家を販売し、農家では収穫前に作物の販売契約を結ぶように、空売りもさほど変った行為ではない。それどころかこれは金融システムの重要な一部である、などと主張している。
ちなみに、バルクがその名を知られるようになったのは、空売り投資家としてではない。第1次世界大戦中、彼は国防評議会のメンバーから戦時産業委員会の会長になり、のちにハーディング、クーリッジ、およびフーバー大統領の近しい顧問になった。しかし、このとき正式な肩書きがなかったことから「パーク・ベンチ・ステーツマン」(公園のベンチのように公の政治家)と呼ばれたのである。
狂騒の20年代と新しい規制
1920年代に入ると、経済が急成長したことで株式市場も大幅に上昇した。1800年代のけん引役だった鉄道株に変わって、ラジオと自動車が1920年代の経済成長を引っぱっていた。
1920年代のブル相場では最大の利益を上げる方法のひとつとして、資金プールが数多く設立された。なかでも有名なのはウィリアム・デュラントによるもので、面白いのは彼がセネラルモータース(GM)の創業者だという点だった。
デュラントには、その巨大な資金プールで株価を操作して利益を上げることが可能だった。標的になった銘柄のひとつは不安定なパフォーマンスから空売りの人気銘柄になっていたカナダの炭鉱会社、インターナショナル・ニッケルだった。デュラントが資金プールを使って株価を60ポイント上昇させて買い占めようとすると、多くの投資家がこれを空売りした。しかし、価格が上がり続けたため、空売りした人たちは高値での買い戻しを余儀なくされ、結局デュラントの株をインフレ価格で買わされたのである。
株価が上がれば上がるほど、人々は株に殺到した。だれもが大金持ちになることを夢見てマニアが起こったのである。そしてこのときの上昇の主な要因がデュラントなどの資本プールによる株価操作だった。しかし、1929年半ばになるとマーケットの勢いも衰え始めた。そして株価の行きすぎに気づいた大口投資家が利食い始めると、10月に株価は暴落した。
こうなるといつものように非難されるのは空売り投資家だった。株価が下がって儲かったはず、彼らの大量の売りがブル相場を終わらせた、という具合である。皮肉なことに1920年代の空売りの割合はそれまでの何十年かに比べて、実はずっと少なかった。抜け目のない投資家はブームの間に空売りをしても損するだけだということにとうに気づいていたからである。
1929年にマーケットが暴落すると、不正が噴出した。もっとも悪名高いひとりはアルバート・ウィギンだった。ウィギンが20世紀前半に金融界の出世街道を駆け上ったことは間違いない。36歳でチェース・ナショナル・バンクの最年少副頭取になったあと1911年には頭取に就任し、最盛期には59の肩書きを持っていた。
1929年10月に株価が暴落すると、ウィギンは株価を下支えするために銀行の資金プールの設立に助力した。しかし、その裏で自分の個人口座を使って4万2000株の空売りを行っており、しかもそれは自分が経営するチェースの株だった! ウィギンはこの取引によって400万ドルという莫大な利益を上げたばかりか、自己資金をいっさい使わずチェースから借りた資金で買い戻し、税制の抜け穴をついて税金も支払わずに済ませたのだった。
しかし、これらの行為に国民の怒りが爆発した。ハーバート・フーバー大統領は上院内に空売り行為に対する調査委員会を設け、証券取引を広範囲に規制する法律が議会を通過した。1933年証券法は証券を公開するときの完全なディスクロージャーを義務付けている。また、証券取引法によって証券会社などを規制するためのSEC(証券取引委員会)が設置され、証拠金を規制する権限がFRB(連邦準備制度理事会)に与えられた。
SECの初代委員長には1920年代にウォール街で名を馳せたジョセフ・ケネディが就任した。F・ルーズベルト大統領は業界の秘密を知る人物が必要だと考え、ケネディ家の長であり、株式市場のインサイダーだったケネディを起用したのである。
1934年証券取引法ではセクション10(a)でSECに空売りを規制する広範囲の権限が与えられた。このときの空売りの定義は「証券を保有していない、あるいは保有していても受け渡しを行わない者による売り」というものだった。
1937年に株式市場が再び暴落するとこの10(a)による権力を行使してSECは「アップティックルール」と呼ばれる10(a)−1を追加した。これは簡単に言えば価格が下がっているときには空売りをしてはいけないというもので、面白いことにこの条項は今日でもほぼそのままの形で残っている(この条項については第3章で詳しく説明する)。
SECが新しい規制を作ったのは、空売りが過度の下降圧力を生むと考えたからだった。もし価格上昇時のみに空売りが行わればこの問題は解決すると期待したのである。
SECと空売り規制
SECは空売りの影響について、長年研究を重ねてきた。このなかには次のようなものが含まれている。
- 1963年の報告 空売りと価格パターンの関連性。相場が下がると空売りが増えており、アップティックルールでは上院が懸念した空売りの悪影響を阻止できていない。報告書は空売りをさらに詳細に記録することを提言している。
- 1976年の報告 空売りのデータが不足しているため、総合的な影響を計るのは難しい。
SECは空売りと下落相場が本当に関連しているのかを見極めるため、一時的にアップティックルールを解除することを提案した。これに対して証券界から12のコメントが寄せられたが、NYSEとAMEXからのものを含めて8つが反対意見だった。
1980年、SECは無期限にアップティックルールを中断するという提案を取り下げた。
- 1991年、下院の政府運営委員会が空売りに関する調査報告を発表。これによると投資家の多くが空売りを理解していないため、アップティックルールは投資家保護の役には立っていないとしている。さらに報告書は、空売りがマーケットに流動性をもたらす効果的な方法であり、それが変動を抑えることにもつながっていると指摘している。また、空売りが株価に与える影響を投資家が誇張しているとも述べている。
1999年10月、SECはさらなる空売り規制を打ち出そうとした。これはいわゆる「コンセプト文」を出版する形で行われ、アップティックルールを存続させるべきかどうかについて業界の意見を求めた。しかし、この大掛かりな提案によって新しい規制が決定されることはなかった。このコンセプト文は、http://www.sec.gov/rules/concept/34-42037.htm に掲載されている。
そもそもSECは、アップティックルールがまだマーケットの規模が小さかったころに作られた過去の遺物だと考えている。今日の市場は、ディスクロージャー規定や、オンライントレード技術が普及して個人投資家が機関投資家と同じツールを持つようになったことによって投資家保護対策がかつてとは比べものにならないほど複雑になっている。一方、当局側も株価操作が行われていないかをモニターできる複雑なコンピューターシステムを備えているのである。
このコンセプト文のなかで、SECは時間外取引と株価の小数点化がいかに空売りに影響したかについても述べている。
時間外取引
空売りは時間外にも行うことができるが、日中の取引とは大きな違いがあることを覚えておいてほしい。時間外取引の場合、アップティック分析は統合テープを使って行われる。統合テープは取引所が使用している高速電子レポーテリングシステムで、その名の通り全国規模の市場、地方市場、ECNなどさまざまな証券市場の取引が含まれている。ちなみに、ECN(電子証券取引ネットワーク)は民間のトレーディングシステムで、ナスダックやNYSEの一部ではない。ECNで最も有名なのがインスティネットである。
ただ、時間外には統合テープが作動していない銘柄もある。このことはアップティックの計算に直近の価格を使用できるNYSEやナスダックなどの取引所では問題にならない。しかし、これが認められていないECNでは代わりに統合テープ上の直近の取引価格を使用することが定められているため、時間外の空売りを大幅に縮小させることができるとSECでは考えている。
小数点化
最近まで株価は分数で表示されていたが、2001年に少数表示に変更された。SECは、株価が1セント以下のわずかな動きでもアップティックになることで、投資家が空売りをしにくくなると考えている。
これらの観点からSECは次のような提言を行っている。
- アップティックルールは株価が閾値よりも上のときは該当しない。例えばXYZという銘柄が3日間で10ドルから20ドルに上昇した場合、この間に何度ダウンティックがあったとしても空売りポジションをとるのは難しいからである。SECは空売りが10ドルから20ドルに上昇する間の変動を緩やかにする効果があると考えている。ベンチマークとしては株価が前日の終値よりも高い間は空売りを可能にするという案がある。
- アップティック分析は活発にトレードされている証券には適用すべきではない。これらの証券に対して価格操作を行うのは不可能に近い。例えば、空売りでGEの株価を下げることは恐らく無理だろう。時価総額1億5000万ドル以上で1日の出来高が100万株以上の銘柄にはアップティックを適応しないという案もある。
- 特定の期間のみ、空売りを規制する。これは合併、公開買付け、オプション期間満了時などが株価操作を目的とした売りの対象になりやすいという考えに基づいている。
- 空売り規制はヘッジ目的のトレードには適用されない。ポジションの安定性を高める目的でヘッジをかけることはポートフォリオマネジャーの主要な役割のひとつだが、アップティックルールによってヘッジのための取引コストが上がってしまっている。SECはいわゆる善意のヘッジがあることは認めている。例えば、XYZを100株保有して同じ銘柄を100株空売りしている場合、株価が上がれば空売り分が下がって相殺される(逆も同じ)ため、中立なポジションになっているのである。
ヘッジファンドの台頭
1950年代まで空売りを行っていたのは、主に個人投資家だった。当時のミューチュアルファンドは空売りすることさえ許されていなかったのである。機関投資家が空売り戦略を採用するようになったのは1949年にアルフレッド・ウインスロー・ジョーンズが最初のヘッジファンドを設立したのが始まりだった。
ジョーンズはさまざまな経歴をもつ人物で、ハーバード大学を卒業後、蒸気船のパーサーを経てヒットラーが権力を握りつつあるベルリンのアメリカ大使館副領事になった。そのあとはコロンビア大学院で社会学の博士号を取得している。このときジョーンズが書いた論文「ライフ・リバティー・アンド・プロパティー」(人生と自由と財産)は社会学の教科書として広く使われている。
ジョーンズはそのあとフォーチュン誌の副編集長に転身した。あるとき「ファッションズ・イン・フォーキャスティング」(予想における流行)という記事を書きながら自分ならプロよりも優れた予想を出せると確信したジョーンズは、48歳で世界初のファンドを設立した。最初の投資額は裕福な投資家から集めた6万ドルと自己資金4万ドルを合わせた10万ドルだった。
ジョーンズのファンドはポートフォリオを空売りによって保護する(ヘッジする)ことからヘッジファンドと呼ばれた。また資金を借り入れて株を買うという手法も導入した。ジョーンズは、借り入れと空売りを組み合わせると実際には保守的なポートフォリオを作ることができると確信していた。
彼の理論を式に表すと、次のようになる。
ネットのリスク額の割合=(長期リスク額−短期リスク額)÷資本
もし10万ドルのポートフォリオに信用借り入れの2万ドルを足した12万ドルで株を買い、4万ドル分空売りすると、総額で16万ドル(12万ドル+4万ドル)の投資額になる。これは元手の10万ドルの160%に当たるが、ジョーンズの公式に当てはめるとリスク額は次のようになる。
(12万ドル−4万ドル)÷10万ドル=80%
つまりネットではリスク額80%の買い持ちポジション(ネットロング)になるのである。これは下落相場に対するリスク額が160%ではなく80%であることを意味している。もし空売りポジションのほうが買い持ち分よりも大きければ、そのポジションはネットで空売りポジション(ネットショート)ということになる。マーケットは長期的には上昇すると考えていたジョーンズは、ポートフォリオを常にネット・ロングの状態に保っていたが、マーケットの下落にも備えて空売りでダメージを減らそうとしていたのでる。
ジョーンズのヘッジファンドはリミテッドパートナーシップ(私募ファンド)の形態をとっていたことも画期的だった。これによって、SECの運用規制や報告義務を回避することができたからである(ヘッジファンドは年収20万ドルまたは自己資本100万ドル以上を持つ「適格投資家」のみを対象としている。この基準を満たす者は洗練された投資家かプロに資産管理を委託できる立場にあると当局はみなしていた)。
ジョーンズのファンドでもうひとつ画期的だったのは、ポートフォリオマネジャーの成功報酬制を取入れたことだった。このファンドは利益の20%がポートフォリオマネジャーの取り分になっており、巨大リターンを目指す巨大な動機付けになっていた。
パフォーマンスの報告義務がなかったため、1966年にフォーチュン誌でこのファンドが取上げられるまでジョーンズはほとんど無名だった。しかしこれがトップ5のファンドのパフォーマンスを上回ったことが紹介されると、ヘッジファンド設立の大波が押し寄せた。このとき参入して活躍したファンドマネジャーのなかにジョージ・ソロスヤウォーレン・バフェットもいた。
ただ、1960年代と1970年代のブル相場において空売りが賢明な手段とは言えなかったこともあり、大部分のヘッジファンドは空売りを行っていなかった。
しかし、1973年になると株式市場を不景気が襲い、数多くのヘッジファンドが消滅した。そして次に彼らがカムバックを果たしたのは1980年代に入ってからだった。このときはジョージ・ソロスなどトップ・プレイヤーの一部がしばし空売りを行っていた。
ソロスは1930年にブダペストに生まれ、17歳でイギリスに渡ると名門のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学した。そして1956年にアメリカに渡るとヘッジファンドを設立した。
ソロスは空売りもうまく、評価の高いブランド銘柄でも臆することなくその対象とした。例えば1970年代に1株当たり120ドルだったエイボンを空売りしたときは、人口の高齢化によってエイボン製品の需要は衰え始めるというのがその理由だった。それから2年で同社の株価は20ドルまで落ち込み、ソロスは約100万ドルの利益を上げた。
空売りは1970年代のベア相場では非常に役に立った。1969〜1974年にかけてソロスのクォンタムファンドは610万ドルから1800万ドルに膨れ上がった。なかでも驚異的な伸びを記録した1977年にはダウ平均が13%下落するなかクォンタムファンドは31.2%も上昇したのである。
1990年、ソロスは日々の運用から引退した。ソロスのあとを引継いだスタンレー・ドラッケンミラーは新しい方針を打ち出し、通貨、金利、先物、株の買い持ちを空売りを組み合わせるマクロの賭けが始まった。
引退したとはいえソロスも主要なトレードにはかかわっており、1992年には伝説のトレードになっているイギリスポンドの空売りで約10億ドルを稼いでいる。このトレードはイギリス政府の怒りを買ったが、ソロスは悪びれる様子もなく「もし自分がやらなければほかのだれかがやっただろう」と語った。
しかしマクロの賭けはリスクも高く、1998年にはロシアへの投資で20億ドルの損失を出している。
もうひとり、多大な影響力を誇ったヘッジファンドマネジャーに、マイケル・スタインハルトがいる。1960年代に20歳代にしてウォール街の人気アナリストになった彼は、当時の人気業種だったコングロマリット(1990年代のインターネット銘柄に匹敵する人気を誇っていた)を担当していた。面白いことにスタインハルトの分析は「相乗効果」を生むと言われていた。
1967年にスタインハルトは770万ドルで自分のヘッジファンドを立ち上げた。当時、アメリカの景気はブームを迎えようとしており、ファンドを立ち上げる好機だった。「データ」という言葉がついた銘柄はすべて急騰するような「行け行け時代」だったのである。
スタインハルトは買うだけでなく、空売りも行っていた。そして1970年代に入り景気が低迷し始めると、これがファンドのパフォーマンスを助けることになった。1960年代に買って利益を上げた高値株を、1970年代に入ると買い持ち分以上に空売りしてファンドはネット・ショートになっていったのである。
スタインハルトはいわゆる「ニフティ・フィフティ」も空売りの対象にしていた。これらの銘柄は「ワン・ディシジョン・ストック」(一回決定銘柄)、つまり「確かな」銘柄なので一度買うという決定だけすればよい(売る必要がない)銘柄と呼ばれ、GE、コカコーラ、マクドナルドなどの巨大ブランドが含まれていた。しかし、スタインハルトはこれらの銘柄も空売りして数百万ドルを稼いだのである。
もちろん失敗トレードもあった。最大の失敗のひとつはオキシデンタル石油の空売りで、株価が過剰人気で割高になっていると思ったスタインハルトは、20ドル台半ばで空売りした。ところが株価は30ドル台に突入し、なおも上げていった。スタインハルトのほうもさらに空売りを重ねていったが、同社が大規模な油田を発見したことが発表されると株価は2倍に跳ね上がった。
スタインハルトは1987年の大暴落も予想していなかった。1987年9月までに彼のファンドは45%という途方もないパフォーマンスを上げていたが、暴落で年間成績はわずか4%に下がっている。しかし、この程度のことでひるむスタインハルトではなく、そのあとも高パフォーマンスを続け、ファンドは数10億ドル規模に成長した。そしてほかの巨大ヘッジファンド同様、彼もマクロの賭けに向かっていった。この取引は1990年代初期はうまくいったが、1994年には崩壊し始め、スタインハルトのファンドも30%の損失をこうむった。
翌年、ファンドが26%回復したところでスタインハルトは引退を決意した。それ以降、彼は慈善事業と自伝の『ノー・ブル』(パンローリング刊)の執筆に没頭した。
ショート・オンリー・ヘッジファンド
ヘッジファンドは買い持ちと空売りのポジションを組み合わせて運用しているものが多い(ロング・ショート)。ただ、実際にはほとんどのファンドが買い持ちの割合を大きくしており、空売りはあくまで下落相場のヘッジとして組み込んでいる。
しかし、なかには空売りのみで運用しているファンドもある。これはショート・オンリー・ヘッジファンドと呼ばれ、数は多くないが1980年代に登場した。このなかでもっとも有名なのは、マット、カート、ジョー(下の2人は双子)のフェッシュバック兄弟が運用するヘッジファンドだった。1982年に設立された同ファンドは、最初のショート・オンリー・ヘッジファンドとして知られている。
フェッシュバック兄弟は根っからのベア派で、3人ともメリルリンチのシンボルマークになっている牡牛(ブル)を真赤な斜線で消したジャケットを着ていた。
彼らが行った空売りのなかでもZZZZベスト株のトレードは伝説になっている。ZZZZベストはまだ10代だったバリー・ミンコウが興したカーペット・クリーニング会社だった。フェッシュバック兄弟は同社についてライバル会社、納入業者、アナリストなどを徹底的に調べた結果、同社が2つのビルで総額800万ドルのカーペット・クリーニング契約を獲得したという発表にトラブルの臭いを嗅ぎ取った。彼らの調査ではこれほど高額の契約は存在しなかったのである。この発表後まもなく同社は破産し、ミンコウは証券詐欺で有罪になった。フェッシュバック兄弟がこの空売りで莫大な利益を得たことは言うまでもない。
1985〜1990年にかけてこのファンドは40%という驚異的なリターン(年複利)を達成した。最盛期の運用額は10億ドルに達していたが、1990年代のブル相場が始まると、一転して空売りが損失を膨らましていった。失敗トレードのなかでも最大のものはウェルス・ファーゴ銀行の空売りで、このときには50ドルで売って200ドルまで耐えたもののついにあきらめている。このあと彼らは空売りの方針を転換し、現在は過小評価されたグロース株を中心とした運用を行っている。
ショート・オンリー・ヘッジファンドのトップファンドはもうひとつある。有名な空売り投資家のジム・チェーノスが運用するキニコス・アソシエーツである。第3章で詳しく述べるが、チェーノスにとっても1990年代は苦難の時期で、インターネット銘柄などの高値株を空売りして大きな損失をこうむった。
もし一流ファンドマネジャーでも空売りでは勝てないのであれば、一般投資家が勝つ方法などあるのかという疑問がわくかもしれないが、フェッシュバック兄弟やチェーノスは空売りのみで運用していたたことを思い出してほしい。このスタイルで常勝するのは実際かなり難しい。そこで前述したとおり、たいていのヘッジファンドは買い持ちと空売りのポジションを組み合わせた運用を行っているのである。
結論
空売りの歴史は不完全であり、それにはいくつか理由がある。そのひとつは自分が空売りをしていることを公表したがらない投資家も多いことで、思いもかけない人物が空売りをしていることも珍しくない。例えば、長期保有が中心のニューバーガー・ミューチュアルファンドを設立したロイ・ニューバーガーも空売りで大成功したひとりである。
ニューバーガーはウォール街のブローカー会社で事務の仕事をしていた1929年に初めて空売りを行った。銘柄は、当時アメリカの改革の象徴だったラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)で、1株当たり600ドル近い価格がついていた。アメリカの新時代を代表する同社が高いのは当たり前だとだれもが言うなかにあって、ニューバーガーはこの株価にどうしても納得がいかなかった。そしてこの考えは正しかった。しばらくするとRCAは下がり始め、ついに1株当たり2ドルまで落ち込んだのである。ちなみに、彼が結婚したのが1933年にダウ平均が史上最安値の41.22ドルを記録した日だったことは皮肉と言えるだろう。
ニューバーガーは時期を選びながら空売りを続けていった(例えば1972〜1973年など)。スタインハルト同様ニューバーガーも高すぎると考えていたニフティフィフティや、1987年の暴落の前などに空売りを仕掛けていたのである。
これまで見てきたとおり一流トレーダーでも空売りで負けることはある。空売りは簡単ではないし、さまざまな調査を必要とする。また、リスクが高いことを考えればポートフォリオ内の空売りの割合は抑えるべきだろう。大部分のヘッジファンドがネット・ロングになっているのはそのためであり、マーケットが長期的に見れば上昇していることは歴史が証明している。ただ、多少の空売りポジションを組み入れることはポートフォリオの下落リスクをヘッジすることにつながるのである。
次章では、空売りの基本を見ていくことにしよう。