しかし、文章を書くということ、しかもそれを仕事にするとなると、そう簡単なことではありません。
著者アン・ラモットは、小説家を父に持つ、元アルコール依存症でシングルマザーの小説家。 彼女の書いたものは、「こうあるべき」といった思い込みや、社会の規範からは大きく外れていますが、 自らの奔放な信仰や、その人らしさを認めるストレートで飾らない表現で「みんなの作家(People's auther)」と呼ばれ愛されています。
本書に書かれているのは、彼女が受け持つ文章(ライティング)講座で教えられている内容です。ただし、そこではいわゆる一般的な小説作法は教えられません。 自らの人生を通して得てきた、ほかの小説作法の本では教えてくれない出版の真実や、小説の着想を得る方法、キャラクター、舞台設定の作り方はもちろん、 スランプに陥ったときの対処法、書いているときに頭のなかで何が起こるかといった小説家の内面をえぐるもの、そして「書く」ことと「出版」の間にある大きな溝について、あらゆる角度から「書く」方法と、その意味を追求していきます。
彼女は言います。 「ライティング講座の生徒は、本を読むという賜り物はもう授かっているし、何人かは優れた才能を持っている。 ほかの何人かは、書くこともうまくないけれど、それでも優れた文章を愛していて、自分も書きたいと願っている。 だから私は言う。「それで十分だと思うわ。さあ、教室の仲間に入りましょう」
もし論理的でテクニカルなプロットの作り方や、美しい文を書く方法を知りたいのであれば、これまでいくつもすばらしい本が出ているので、本書を読む必要はありません。 しかし、リアリティのあるキャラ作りやテーマ、舞台設定について考えたい人、文章を書くのは好きだけれどスランプに陥っている人、何か書いてみたいけれど何から書いたらいいのかも分からないという人にとっては、きっとたくさんのひらめきをもたらし、励まされるはず。そして本書を読み終えたなら、きっと書きたいアイデアにあふれてくるはずです。 そうして書くうちに、やがて、書くことそのものに癒され、喜びとしている自分に気がつくことでしょう。
作家志望のあなたへ
いま、私は教える立場にいる。偶然の産物みたいなもので、10年ほど前にとある人が単発のライティング講座を担当しないかと声をかけてきた。それ以来、ずっとライティング講座で教えている。 書くことは教えられるものではないと言う人もいる。けれどそんな人にはこう言ってやりたい。「あなた何様? 神様か試験官か何か?」 私の講座の生徒がものを書くことやもっとうまく書くことを学びたいと言うのなら、これまで私が自分の役に立ったと思うすべてを伝えられるし、私にとって毎日書くことが何を意味するのかをお話しできる。これまでに出版された素晴らしい小説作法本には書かれていそうにない、小さなヒントを教えることもできる。 例えば、12月は、ものを書くには最悪の月だと教えてくれた人って、いままでにいたかしら。12月は月曜日の月で、月曜日は、ものを書くには不適な日だ。週末を自由に、いかにも週末らしく夢みるような夢を見て過ごしたあと、怒りっぽくて無口なスラブ系の〝月曜おじさん〟がやって来る。つまり、机に向かって座る時が来たと告げられる。 私は、生徒には12月の月曜日に大きな作品に取りかからないように勧めている。なぜ、失敗するとわかりきっていることにわざわざ手を出さなくちゃいけないの? 著名作家がインタビューで「なぜあなたは書くのか」とよく理由を尋ねられている。私の記憶が正しければ詩人のジョン・アッシュベリーだったと思うけれど、こう答えていた。「書きたいから」。フラナリー・オコナーの答えはこうだ。「書くのが得意だから」 たまに私もこの質問をされたときは、この二人の言葉を引用している。それと、私は書くこと以外に何の特技もないので、書かなければ完全に失業してしまうからとつけ加える。 ただし、小ざかしいことを言うのはやめて正直に言えば、やっぱり私も書きたいと思うし、書くのが得意だから、というのが本音だ。
私は、生徒たちに、明日の朝の自分はこんなふうなのよと説明する。机の前に座り、少々のアイデアはあるけれど、目の前には白紙の紙があるだけで、醜いうぬぼれと自尊心の低さが同じくらい混じり合ったままキーボードに指を置くだろうということ。そして、あなたたちはすぐに上手に書けるようになりたいと思うでしょうが、そううまくはいかないはず、でも信念をもって練習し続ければいつかうまくなるかもしれない、と言う。 生徒ははじめは「作品を書き上げたい」と思っていたのに、いつしか「いつも書いていたい」と思うようになるかもしれない。ピアノやテニスを続けるのが楽しいように、いつも何かを書いていたいと思うようになるかも。書くことそのものに大きな喜びがあり、とてもやりがいがあるから。
書くことは、仕事でもあり楽しみでもある。本や物語の執筆にとり組んでいるとき、生徒の頭の中ではアイデアと新しい思いつきが渦巻いていると思う。彼らはいままでとは違う目で世界を見るようになっている。見るもの、聞くもの、知るものすべてが、書く材料になりそうだ。 カクテルパーティーや郵便局の順番待ちの列でも、ちょっとした情景を頭に焼きつけ、誰かの言葉を小耳にはさんだらその場をそっと離れて、いま見聞きしたことをメモするようになる。でも、ときには、気がおかしくなりそうな退屈を味わい、イライラするような絶望にさいなまれ、もの書き稼業から足を洗いたくなる、そういう日々を机の前で過ごすことになる。反対に、自分は波をとらえた、波に乗っていると感じられる日だってやって来る。 それに、本を出版しても、そのことで収入が安定し、心の平安と喜びを手にする見込みはたぶんそれほど大きくない。落ち込み、ヒステリー、肌荒れ、チック症状、悲惨な経済状態に見舞われる可能性はあるけれど。それでも書かなければならない、と生徒には言う。 生徒にわかってほしいのは、書いても――それも、うまく書けるようになっても――、そして本や創作や記事を出版しても、生徒たちの大半が望む夢の扉は開かれないということだ。結果として、生徒たちの状況が良くなることはまずないだろう。残念ながら、世の中に認められたと感じることも、求めていたステータスを得たと感じることもないだろう。 私のもの書き仲間は、満足感をたっぷりと味わい、いつもにこにこ暮らしているわけではない。そうでない友人が山といる。彼らは幽霊にでもとりつかれたように、疲れ果て、度肝を抜かれた表情をしている。強力な体臭防止剤でも吹きかけられた実験用の犬みたいな顔だ。 当然ながら生徒たちがこんな話を聞いて喜ぶはずがない。4冊目の本が出て、やっと生活苦から卒業できた芸術家の話なんか聞きたがらない。生徒のほとんどは本を出版することなどできないだろうし、できたとしてもそれで生活を賄える人はもっと少ないという話など、聞きたくもないだろう。生徒たちは出版に大きな意味があるという幻想を抱くけれど、現実は大違い。
私のもの書き仲間は、書いているとき、何をするよりも気分爽快だし、生きていると実感できることがあるという。それと、うまく書けるときは、自分が何かに衝き動かされて書いている気がするとも。最もふさわしい言葉や真実の言葉はすでに頭の中にあって、書き手はその言葉を外に送り出す手助けをするだけでいいという気がするというのだ。その感覚は牛の乳しぼりに似ているかもしれない。乳は濃厚で美味しいし、牛も乳をしぼられて満足する。 私の講座を受講する生徒にも、同じように感じながら書いてほしい。だから、私は、自分が作品を書き上げるのに役立ったと思うことのすべてを生徒たちに伝え続けている。 ほかの作家の言葉を引用したり、私自身が刺激を受けた言葉をコピーして生徒たちに配ることもある。私が不安に駆られたり、退屈したり、気落ちしたりして、飛び降りるのにちょうどよさそうな橋までのタクシー代をかき集めようとして電話をかけたときに、友人たちが思い出させてくれた言葉や文も教える。 この本に書いたことは、私が自分で学んだこと、私の講座をはじめて受講する生徒たちに伝えていることだ。ものを書くことに関するほかの本とはだいぶ違う。その手の本で優れた本は何冊かある。でも、本書はもっと個人的なもので、もっと私の講座に近い内容だ。今日現在、「書く」ことについて私が知るすべてがここに書いてある。
献辞 謝辞 はじめに――私の講座を受ける前に
第1章 書くということ とにかく書きはじめる――どうせ誰も見やしない/まずは短編から書いてみよう/ヘタクソな第一稿/完璧主義は創作の敵/学校のランチタイム/ポラロイド――書きたいものはだんだん見えてくる/キャラクターの書き方/プロットについて、私の考え/会話について/舞台設定の方法/フライングスタート/プロット・トリートメント/これで完成だと、どうしてわかるのですか?
第2章 作家の心理 観察する――世界に心を開く/情熱に火をつけるのは「道徳的観点」/ブロッコリーにたずねよ/ラジオ局KFKD――あなたを邪魔する雑音/他人への嫉妬
第3章 助け合う 索引カードをつくろう/電話をかけまくる/創作グループ/誰かに原稿を読んでもらう/手紙を書いてみる/作家のスランプ
第4章 本を書く理由 いまを書くことに意味がある/自分の声を見つける/作家は「与える」人/出版にまつわる真実
第5章 最後の授業 生徒たちに言いたいこと
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原書:Bird by Bird