はしがき ピーター・S・リンチ デービス家の年表 序章 訳者あとがき
目次 はしがき ピーター・S・リンチ デービス家の年表 謝辞 序章 第一章 デービス出資者に出会う 第二章 大恐慌からヒトラー危機まで 第三章 バックミラーの向こう 第四章 債券黄金時代のたそがれ 第五章 保険の歴史 第六章 役人から投資家へ 第七章 株高の一九五〇年代 第八章 デービス海外投資に目覚める 第九章 投機に踊るウォール街 第一〇章 ウォール街に歩みだしたシェルビー 第一一章 相続騒動 第一二章 ホットなファンドを操るクールな三人組 第一三章 一九二九年以来最悪の下げ相場 第一四章 デービス ウォール街に戻る 第一五章 シェルビーは銀行を買いデービスは何でも買う 第一六章 孫もゲームに参加 第一七章 一族が一致団結して 第一八章 クリスがベンチャーを引き継ぐ 第一九章 デービス流投資術 脚注 訳者あとがき
■デービス家の年表
一九〇六〜一九〇九年 シェルビー・カロム・デービスが一九〇九年にイリノイ州ペオリアで誕生。地震と火災でサンフランシスコに壊滅的被害。ウォール街はパニックになり、ダウは三二%急落して五三ドルのの安値をつける。当代随一の銀行家、J・P・モルガンが米国銀行システムを救済。 一九二八〜一九三〇年 デービスがプリンストン大学を卒業。将来の妻、キャスリン・ワッサーマンがウエレスレイ大学を卒業。二人とも国際政治学に熱中し、株式市場に関心がなかったおかげで、1929年の株価大暴落に巻き込まれなかった。まだ互いの存在を知らない。 一九三〇〜一九三一年 将来の大投資家(シェルビー・デービス)がフランスの列車で将来の出資者(キャスリン・ワッサーマン)に出会う。ともにコロンビア大学で修士号を取るため、ニューヨークに戻る。大恐慌が始まるが、二人は元気に勉強に励んだ。 一九三二年 勤勉なカップルがニューヨークの市役所で挙式。ダウが四一で株式市場は底入れ。新婚の二人は船で欧州へ。デービスがCBSラジオの仕事を得る。 一九三三年 ハネムーンは終わり、デービスが義兄の投資会社に就職、初めて株に触れる。五年間の見えざる上げ相場は、株を買う金と勇気のある少数の投資家を金持ちにした。この意外な鉱脈はたいてい歴史から省略され、大勢のホームレスと失業者の列ばかりが取り上げられた。 一九三七年 デービスが義兄の会社を退職、フリーランスの作家になる。上げ相場が終わる。ダウが一九四から九八に下げる過程で、息子シェルビーが誕生、その時点では未完成のデービス流投資術の後継者ができる。 一九三八年 娘ダイアナが誕生。デービスの本『一九四〇年代を前にしたアメリカ(America Faces the Forties)』が出版される。それを読んで感心したトーマス・E・デューイ(ニューヨーク州知事で有力大統領候補)がデービスを経済顧問兼スピーチライターとして雇う。 一九四一〜一九四二年 デービスがあまりの安さ(三万三〇〇〇ドル)にニューヨーク証券取引所の会員権を購入。ダウが一九〇六年の高値水準九二まで反落。アメリカが第二次世界大戦に参戦。 一九四四年 顧問としての仕事に報いるため、デューイ知事がデービスを州保険局副局長に抜擢。デービスは自分の主鉱脈である保険会社に出合う。戦時の株高でダウは二一二へ上昇。 一九四七年 デービスが三八歳で州政府の仕事を退職、キャスリンからの元手五万ドルで購入した保険株ポートフォリオの運用に専念。ウォール街の近くで事務所を開業。平時に不安定な展開となり、投資家が「平和はビジネスに悪い」と心配したため、ダウは一六一まで下落。専門家は債券買いを推奨。債券市場は期待を見事に裏切り、三四年に及ぶ債券の弱気相場が始まる。 一九五二年 デービスの含み益が一〇〇万ドルに到達。ダウは二三年かけて一九二九年の高値三八一をついに更新。 一九五七年 息子シェルビーがプリンストン大学を卒業、バンク・オブ・ニューヨークの株式アナリストとしてウォール街にデビュー。株価がどんどん上がり、ダウは一〇〇〇を目指す。 一九六一年 三八〇万ドルの信託基金をめぐるデービスと娘ダイアナの喧嘩がニューヨークのタブロイド紙を連日賑わす。 一九六二年 デービスが日本を訪問、保険会社の株式を購入。彼の人生で最も収穫の多い旅。 一九六三〜一九六五年 シェルビーの妻ウェンディがマンハッタンでアンドリューとクリスを出産、デービス家の投資家第三世代が誕生。シェルビーがバンク・オブ・ニューヨークを退職、二人のパートナーとともに小さな投資会社を設立。 一九六五〜一九六八年 一九二〇年代以来の投信ブーム。ダウは一〇〇〇ドル辺りでもたつき、結局その後一七年はこの壁を破れなかった。専門家は、ハイテク産業が永遠の繁栄をもたらす「新時代」の到来を宣言。三回連続の下げ相場の初回。 一九六九年 デービスがスイス大使に任命され、キャスリンとともにベルンへ。息子シェルビーと相棒のジェレミー・ビッグズがニューヨーク・ベンチャー・ファンドの運用担当者に就任。三部作の下げ相場の二回目が投資家を襲い、有望ハイテク株が急落。 一九七〇年 ベンチャー・ファンドが年間運用成績トップとなり、ビジネス・ウィーク誌で称賛される。運用成績はやがて最下位に転落。 一九七三〜一九七四年 三部作の三番目の下げ相場が到来。一九二九〜三二年以来最大の下げ。ダウは一〇五一から五七七へ四五%急落。人気が高かったニフティ・フィフティ(素晴らしい五〇銘柄)の下げが七〇〜九〇%と特にきつかった。ベンチャー・ファンドの最初からの投資家は五年後に利益がゼロになった。 一九七五年 デービス大使がスイスから帰国、三年前には五〇〇〇万ドルの価値があり今や二〇〇〇万ドルに目減りしたポートフォリオと再会。シェルビーがウェンディと離婚、すぐにゲイル・ランシングと再婚。ベンチャー・ファンドでの成功体験を参考に新たな株式選別手法を採用。 一九八一年 一九七〇年代の猛烈なインフレがようやく終息する。その後二〇年に及ぶ金利低下時代の幕開け。株式は二〇年続く上昇が始まるが、この時点では少数の楽観派しかそれを予想していなかった。 一九八三年 シェルビーの単独運用となり、ベンチャー・ファンドは七年連続S&P五〇〇に勝つ。 一九八七年 株価暴落。世界中がパニックになる中、デービスは猛然と株を買う。 一九八八年 デービスがフォーブス誌の全米長者番付ベスト四〇〇入り。当時、彼のポートフォリオは四億二七〇〇万ドル。シェルビーが信頼できる優秀な投信運用担当者としてフォーブス誌に選ばれる。 一九九〇年 クリスがニューヨークの祖父の事務所に就職。 一九九一年 クリスがデービス・ファイナンシャル・ファンドの運用担当者に就任。ダウが三〇〇〇到達。 一九九三年 アンドリューがデービス転換社債ファンドとデービス不動産ファンド(どちらも彼を想定して設定されたもの)の運用を担当。サンタフェに引っ越す。 一九九四年 デービスが死亡、九億ドル近い信託財産を保守的な目的のために残す。シェルビーとクリスはデービスの持ち株を売却、その代金をベンチャー・ファンドや他のデービス家関連のファンドに投資。デービス家の資産と知力がついに集約される。 一九九五年 クリスがベンチャー・ファンドの共同運用者に任命され、アンドリューはさほど派手ではない役割に満足。ダウが五〇〇〇に到達。 一九九七年 シェルビーが還暦を迎え、ベンチャー・ファンドが二八歳に。クリスがベンチャー・ファンドの単独運用者に任命され、シェルビーは助言役に。シェルビーは自分の財産から四五〇〇万ドルをユナイテッド・ワールド・カレッジの奨学金プログラムに寄付、自分が父親の財産を相続しなかったように、子供たちにも財産を残さないというシグナルを送る。 一九九八〜二〇〇〇年 アンドリューとクリスそしてクリスの新パートナー、ケン・フレイドバーグが疲れた上げ相場に挑む。
この本は長期投資に関するものである。ここでいう長期とは、一五分とか四半期はもちろん、ひとつの景気循環よりはるかに長い時間を指す。最近は株を買ってずっと保有する「バイ・アンド・ホールド」の投資スタイルが注目されているが、デービス家はポートフォリオ運営についてだけでなく、巨額の財産を相続させないことで子供を自立した働き者に育てるすべについても、五〇年に及ぶケーススタディを提供してくれる。子供が家の財産に頼らなければ、その分を投資に回し、一族の資産は複利で増え続ける。これこそ真の長期投資であり、五年や一〇年どころか半永久的なものである。この本で紹介する彼らの型破りな投資活動は、大半のアメリカ人が株を持つことを恐れた一九四〇年代末から、大半のアメリカ人が株を持たないことを恐れた一九九〇年代までのものである。この間、彼らは長期の上げ相場を二回、調整を二五回、大幅な下げを二回、大暴落を一回、緩やかな下げ相場を七回、景気後退を九回、大きな戦争を三回、大統領の暗殺、辞任、弾劾を一回ずつ経験している。その間には、金利上昇の年が三四年、金利低下の年が一八年、長きにわたるインフレとの戦い、株安・債券高と株高・債券安の時期、株も債券も値下がりして金が値上がりした時期、そして株式投資より銀行預金のほうが報われた時期すらあった。デービス家の人たちがこうしたさまざまな局面にどう対処したかを見ると、良い時と悪い時に株がどう動くか分かる。
2003年6月
ミスター・マーケットの二〇世紀の歴史は、デービス家の家系図を通して、緩慢な回復期をはさんだ三回の大幅上昇期と二回の大幅下落期に凝縮できる。株が値上がりしたのは、一九一〇〜二九年、一九四九〜六九年、一九八二年から現在の三回である。だいたい二〇年続いたこれらの上げ相場はいずれも、経済が活況を呈し、夢の新技術が登場、企業収益が伸び、バリュエーションが急上昇した時期である。消費者には自由に使える金があり、それを支出する傾向があった。
大幅な下げに見舞われたのは、一九二九〜三二年と一九七〇〜七四年の二回である。一九二一〜二九年と一九四九〜六九年に生み出された株式市場の富は、こうした下げ相場で消えてしまった。一番人気のある業界の一番人気のある銘柄を保有していた場合は、最も傷が深かった。しかも、一般の投資家は上げ相場の終盤から買うことが多いため、大勢の小口投資家は余計に痛い目に遭った。ミューチュアルファンドを通じた投資は株を直接買うより安全と思われていたが、平均的なファンドは平均的な株と同じかそれ以上の値下がりを記録した。
回復局面においては、株式は気迷い商状が続いたり、突然反発したり、いきなり驚くほど下げることがある。相場の回復には一九三二年の底からでは二〇年以上、一九七四年の底からだと八年近くを要した。どちらの回復期にも、大衆は株式に愛想を尽かした。
マーケットの荒波にも負けず、デービス家はその株選びの極意を駆使して好結果を残し続けている。読者もそれを応用することで、株式投資で利益を上げられるだろう。
訳者あとがき
“デービス・ダイナスティー”というタイトルを最初に見たとき、石油王ロックフェラーや金融王J・P・モルガンをイメージしたが、読み進むうちに「普通のオヤジ」が株式投資で大成功を収める話と分かり、急に親近感がわいてきた。この本の主人公、デービスが投資の世界に足を踏み入れたのは三八歳になってからである。ニューヨーク州政府の要職という人もうらやむ仕事を捨て、相場の腕だけで食っていこうというのだから、その決意は並大抵のものではない。しかも、第二次世界大戦が終わってからまだ二年後の不景気な時代にである。その意味で、この本は暗い話題ばかりの今の日本に住むわれわれ中年の応援歌として読んでも面白い。
二つ目のポイントは、著者が「世界で二番目に偉大な株式投資家」と呼ぶデービスの実践的な投資術を学べるところである。ほとんど保険株への投資だけで五万ドルの元手を九億ドルにまで一万八○○○倍に増やした実績は、あのウォーレン・バフェットに迫るものである。実際、二人は知り合いで、投資スタイルなど共通点が多い。これら二人の達人は、株式投資で一攫千金を狙ったわけではなく、自分流の「勝利の方程式」をひたすら信じて実践した結果として、巨万の富を築いたのである。彼らのすごさは、自分の信念にあきれるほど頑固で、自分の力を試すことに純粋な喜びを感じるところにある。キーワードは「自分を信じる力」。すでに投資をしている人にとっても、これから投資を始めようという人にとっても、大いに参考になるだろう。
三つ目の楽しみ方は、デービスとその一族のドラマとしてである。デービスが子供や孫に伝えたのは、株式投資の極意だけではなく、徹底した倹約精神と独立精神だった。彼の倹約ぶりを物語るエピソードとして、孫に一ドルのホットドッグを買ってくれとねだられたとき、「この一ドルをうまく運用したら、五○年後には一〇〇〇ドルになる」といって拒否した話が紹介されている。しかし、彼はただのケチではない。九億ドルの遺産は慈善団体などへの寄付に回され、まさに「子孫に美田を残さず」を地で行ったのだ。彼は子供や孫に「お前たちはわたしから何ももらえないよ。そうすれば自分で稼ぐ楽しみを奪われないだろう」と常々言っていた。独立精神、それこそデービス王朝の礎である。
高本義治
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