「Goldene Zwanziger(黄金の20年代)」と呼ばれる1920年代、モダンな文化が花開いたベルリンでは、新即物主義などの魅力的なアートが次々に生まれました。しかしナチスの時代になると、退廃芸術とされ、一掃されてしまいます。『ベルリン 1928-1933』には、そのような作品へのオマージュがいくつも見られるように思います。
ここでは本編に盛り込まれたアート作品の一部をご紹介させてください。[検索ワード]で検索していただくと、該当する作品が表示されます(Google検索をおすすめします)。関連する作品も見つかるかもしれません。 また、本書には、アート作品以外にも、文学・音楽・映画作品などのモチーフが随所に見られます。気になった人名・作品名などをぜひ検索してみてください。みなさまの新たな興味のきっかけになりましたら、幸いです。
(鵜田良江)
p.6 このページから登場するクルト・ゼフェリングは、ゲオルク・ショルツ(Georg Scholz、1890-1945)が1926年に描いた、『Selbstbildnis vor der Litfaßsäule(広告塔の前の自画像)』のショルツの姿を彷彿とさせます。ショルツはドイツの新即物主義の画家で、第一次世界大戦に従軍後、共産党員になっています。カールスルーエの造形芸術アカデミーで教授をつとめましたが、1933年1月のナチスによる政権掌握後、追放されています。
Georg Scholz Selbstbildnis vor der Litfaßsäule
[ゲオルク・ショルツ 広告塔の前の自画像]
p.14 4コマに描かれている男性たちは、カール・フッブーフ(Karl Hubbuch、1891-1979)が1925年ごろに描いた、『Entenräuber(アヒル泥棒)』がモチーフになっている気がします。フッブーフはドイツの新即物主義の画家で、第一次世界大戦に従軍したのち、カールスルーエの芸術アカデミーでリトグラフを教えていました。ナチスによる政権掌握後は職を追われ、芸術家としての活動も禁じられています。
Karl Hubbuch Entenräuber Staatsgalerie Stuttgart
[カール・フッブーフ アヒル泥棒 シュツットガルト州立美術館]
p.16 16〜17ページに登場する復員兵は、オットー・ディクス(Otto Dix、1891-1969)が1928年ごろに描いた、3枚組の作品『Großstadt(大都市)』の、左パネルの左端にいる人物がモチーフになっているように思います。ディクスはドイツの新即物主義の画家で、第一次世界大戦に従軍した経験から、戦争や社会の矛盾を赤裸々に描きました。1927年にドレスデン芸術アカデミーの教授に就任しますが、ナチスが政権を掌握すると、その地位を失っています。
Otto Dix Großstadt
[オットー・ディクス 大都市]
p.22 このページから登場するマリアンネの服装は、ルドルフ・シュリヒター(Rudolf Schlichter、1890-1955)が1924年に描いた、『Bildnis Margot(マルゴットの肖像)』に似ている気がします。シュリヒターはドイツの新即物主義の画家で、共産党員の経歴もあり、前衛芸術家が結成した「11月グループ」や、ベルリン分離派、ダダ運動などに参加していました。本書に登場するAIZ(労働者画報)にもイラストを描いています。
Rudolf Schlichter Bildnis Margot
[ルドルフ・シュリヒター マルゴットの肖像]
p.28 7コマの建物は、フランツ・レンク(Franz Lenk、1898-1968)が1929年に描いた『Berliner Hinterhäuser(ベルリン路地裏の家)』によく似ています。レンクはドイツの新即物主義の画家で、ドレスデンの芸術アカデミーで学び、第一次世界大戦に従軍したのち、ベルリンに移りました。1933年のナチスによる政権掌握後に帝国造形芸術院の教授をつとめましたが、ナチスの芸術政策を批判して、1938年に辞任しています。
Franz Lenk Berliner Hinterhäuser
[フランツ・レンク ベルリン路地裏の家]
p.31 1コマから登場するリヒャルトは、ドイツの新即物主義の写真家アウグスト・ザンダー(August Sander、1876-1964)が撮影した、ハインリヒ・ヘーレ(Heinrich Hoerle、1895-1936)のポートレート写真によく似ています。ヘーレはドイツの表現主義・ダダイズム・新即物主義の画家で、中でも、1930年に描いたダダイズムの作品『Zwei Frauen(ふたりのヌードの女)』で知られています。
Heinrich Hoerle August Sander
[ハインリヒ・ヘーレ アウグスト・ザンダー]
p.32 5コマから登場するシュテーマー教授は、当時のプロイセン芸術アカデミーの総裁、マックス・リーバーマン(Max Liebermann、1847-1935)を彷彿とさせます。リーバーマンは1898年に立ちあげられたベルリン分離派の創立メンバーのひとりで、1920-32年にはプロイセン芸術アカデミーの総裁をつとめていました。1932年から33年にかけては名誉総裁でしたが、ナチスによる権力掌握後、ユダヤ系でもあったために地位を失い、1935年に死去しました。
Max Liebermann Lemo
[マックス・リーバーマン 生きている博物館オンライン]
p.36 1コマの中央に見えているのはベルリンの市庁舎の時計台ですが、ブランデンブルク門のすぐ南側にあったプロイセン芸術アカデミーの屋上から、この時計台がこれほど近くに見えるのは不自然です。この構図は、ルドルフ・シュリヒター(前出)が1920年ごろに描いた、『Dada-Dachatelier(ダダの屋上アトリエ)』の背景によく似ています。40ページの6コマなどの、マルテたちがいる屋上のようすも、この絵がモチーフになっているようです。また、41ページのリヒャルトの夢に出てくるモデルや子どもも、この絵からとられているように思います。
Rudolf Schlichter Dada-Dachatelier
[ルドルフ・シュリヒター ダダの屋上アトリエ]
p.39 フランス・マシリール(Frans Masereel、1889-1972)はフランスを拠点としていた画家で、木版画による言葉のない小説をいくつも残しました。リヒャルトが持ち歩いている『情熱の旅(Passionate Journey)』もまた、そのような作品のひとつです。この本のドイツ語タイトルは『Mein Stundenbuch(わたしの時祷書)』ですので、2コマなどの表紙のタイトルもそうなっています。
Frans Masereel Passionate Journey
[フランス・マシリール 情熱の旅]
p.44 1コマから描かれている少年ダーヴィトは、コンラート・フェリクスミュラー(Conrad Felixmüller、1897-1977)が1928年に描いた、『Zeitungsjunge(新聞売りの少年)』がモチーフになっているように思います。フェリクスミュラーはドイツの表現主義・新即物主義の画家で、第一次世界大戦では武器をとることを拒否して、看護兵として従軍しました。ワイマール共和国時代には雑誌のイラストを描いて活躍しますが、ナチスの時代になると、退廃芸術として作品を処分されるなどの迫害を受けています。
Conrad Felixmüller Zeitungsjunge
[コンラート・フェリクスミュラー 新聞売りの少年]
p.50 50〜52ページのカバレットの店内のようすや、ポーラやバックダンサーたちの衣装は、アドルフ・ウザルスキー(Adolf Uzarski、1885-1970)が1928年に描いた『Spanisches Kabarett(スペイン風カバレット)』がモチーフになっているようです。ウザルスキーはドイツの新即物主義の画家で、デュッセルドルフの芸術学校で学び、平和主義者として第一次世界大戦での従軍を拒否。ワイマール共和国時代にはデュッセルドルフで作家・画家として活躍しました。ナチスによる政権掌握後には迫害を受けています。
Adolf Uzarski Spanisches Kabarett
[アドルフ・ウザルスキー スペイン風カバレット]
p.70 9コマの建物ですが、これはおそらくベルリンではなく、デュッセルドルフの建物です。ハンス・クラリク(Hanns Kralik、1900-1971)が1930年に描いた『Aus meinem Fenster(わたしの窓から)』という作品に、このコマの光景全体がよく似ています。これはデュッセルドルフの街角とのことです。クラリクはドイツの新即物主義の画家で、デュッセルドルフの芸術アカデミーで学び、共産党員でもありました。ナチス時代には強制収容所に収容された時期もありましたが、国外に逃れています。
Hanns Kralik Aus meinem Fenster
[ハンス・クラリク わたしの窓から]
p.87 5コマから登場する少年は、カール・フッブーフ(前出)が1925年に描いた『Die Schulstube(教室)』の少年がモチーフになっているように思います。
Karl Hubbuch Die Schulstube
[カール・フッブーフ 教室]
p.103 5コマのアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer、1471-1528)の木版画は、ルネサンス期に活躍したドイツの画家デューラーが執筆し、1525年に刊行された書籍『測定法教則(Underweysung der Messung)』の挿絵として使われています。この本は、ドレスデン州立大学図書館のサイトで全文を読むことができます(https://digital.slub-dresden.de/werkansicht/dlf/17139/181)。
Albrecht Dürer The Draughtsman of the Lute
[アルブレヒト・デューラー リュートを描く人]
p.145 本書の主人公マルテ・ミュラーは、デルテ・クララ・ヴォルフ(Dörte Clara Wolff、1907-1998)、通称ドド(Dodo)を彷彿とさせます。とくにこのページの、1〜6コマのマルテの表情が、ドイツ語や英語のWikipediaに使われているドドの写真によく似ていると思います。ドドはアール・デコや新即物主義の画家で、1920年代にさまざまな雑誌でイラストを発表していましたが、ユダヤ系だったために、1936年にイギリスへ逃れています。
Dörte Clara Wolff Dodo
[デルテ・ヴォルフ ドド]
p.216 第2部に登場するジャズバンド、「ココアキッズ(Cocoa Kids)」の名前について、補足をさせてください。1926年の5月、黒人ジャズピアニストのサム・ウッディング(Sam Wooding、1895-1985)がひきいるサム・ウッディング・オーケストラが、ニューヨークからベルリンにやってきて、『Chocolate Kiddies(チョコレート・キディーズ)』というタイトルのブロードウェイスタイル・レビューを上演しました。ココアキッズのバンド名は、このレビューにちなんだものかもしれません。黒人音楽、つまりジャズは、ナチスの時代に退廃芸術とされ、猿を連想させるようなデザインで黒人が描かれた、差別的なポスターも作られていました。
Sam Wooding Chocolate Kiddies Berlin
[サム・ウッディング チョコレート・キディーズ]
p.241 5コマの資本家たちの姿は、ジョージ・グロス(George Grosz、1893-1959)の作品の人物たちがモチーフになっているように思います。1916年に描かれた『Ach, knallige Welt, du seliges Abnormitätenkabinett(ああ刺激的な世界、このごきげんな変態たちの展示室)』や、1920年の作品『Die Besitzkröten(資産ガエル)』などに登場する資産家やブルジョワたちです。グロスはドイツの新即物主義の画家で、ワイマール共和国時代には資本主義の矛盾を赤裸々に描く風刺画で高く評価されました。1928年には作品が神への冒涜にあたるとして告訴されています。1933年にアメリカへ亡命しますが、その作品はナチスによって退廃芸術とされました。
George Grosz Ach, knallige Welt, du seliges Abnormitätenkabinett
[ジョージ・グロス ああ刺激的な世界、このごきげんな変態たちの展示室]
George Grosz Die Besitzkröten
[ジョージ・グロス 資産ガエル]
p.245 このページから登場する悪徳プロモーターのシュニッツィーは、ハインリヒ・マリア・ダフリングハウゼン(Heinrich Maria Davringhausen、1894-1970)が1921年ごろに描いた、『Der Schieber(詐欺師)』の男性に似ている気がします。ダフリングハウゼンはドイツの新即物主義の画家で、デュッセルドルフの芸術アカデミーで学んだのち、1915年にベルリンへ移っています。芸術家団体「11月グループ」や、各地の新即物主義などの美術展に参加。1933年、ユダヤ系の妻とともに国外へ逃れています。
Heinrich Maria Davringhausen Der Schieber
[ハインリヒ・マリア・ダフリングハウゼン 詐欺師]
p.305 4コマから登場するヘル・シャイトとフロイライン・ハンケは、ジャンヌ・マメン(Jeanne Mammen、1890-1976)が1927年に描いた『Sie repräsentiert(彼女は代表している)』という作品の女性たちがモチーフになっている気がします。マメンはドイツの新即物主義の画家で、パリで幼少時代を過ごし、絵画もパリやローマで学びました。ワイマール共和国時代には、性の解放が進む大都市ベルリンのレズビアンたちを描いたことで知られています。さまざまな雑誌で作品を発表していましたが、ナチス時代には活動を控えてベルリンで生き抜きました。マメンはつぎのような言葉を残しています。「わたしはもともと、いつも願っていました。ひと組の目だけになって、だれにも見られることなく世界を動きまわり、ただ、他者を見ていたいと」
Jeanne Mammen Sie repräsentiert
[ジャンヌ・マメン 彼女は代表している]
p.314 3コマから登場する社長は、ジョージ・グロス(前出)が1921年に描いた『Grauer Tag(灰色の日)』の男性にどこか似ているように思います。
George Grosz Grauer Tag
[ジョージ・グロス 灰色の日]
ボリュームのある本編に続く、巻末の参考文献の多さにも圧倒されたのですが、とくにその中の1冊、新即物主義の本に目をひかれました。そこで、そのドイツ語版『Neue Sachlichkeit(新即物主義)』(Sergiusz Michalski、Taschen、1992)を取り寄せてみたのです。以前から、青い馬で知られるドイツの表現主義の画家、フランツ・マルクの絵や、アール・デコ、バウハウスのデザインなどに興味があり、同時代のアートだとわくわくしながら届いた本をひもといてみると……あれ、これも? あれも? と、さまざまな場面のもとになったのではないか、という気のする作品が、いくつも見つかりました。
『ベルリン 1928-1933』には、絵画だけでなく、たくさんの文筆家たちや、音楽、カフェやカバレットなど、1919年から1933年の14年間にわたるワイマール共和国時代の多彩な要素が、1928-1933年という短い期間に再構成されて詰めこまれています。本書の随所に見られる新即物主義のアート作品は、1933年1月にヒトラーが首相に就任すると、退廃芸術とされ、一掃されてしまいました。絵画のほかに、新即物主義の文学や、黒人音楽、現代音楽の作品もまた、迫害の対象になっています。第二次世界大戦後のドイツでは、ワイマール共和国時代はヒトラーを生んだ時代として封印され、新即物主義の芸術家の再評価が進んできたのは、比較的最近のことです。このような事情もあって、魅力的な多くの芸術家たちの作品が、あまり知られないままになっています。
戦後、ドイツではいったん封印されたワイマール共和国時代ですが、米国ではあの時代の作品が紹介されつづけました。そのためでしょうか。ワイマール共和国時代の文化・芸術をめぐる資料は、いまでもドイツ語より英語のほうが豊富に手に入るのです。ジェイソン・リューツはそのような米国の作家だからこそ、ワイマール共和国時代のドイツを舞台に、数多くのアートにオマージュを捧げたグラフィックノベルを制作できたのかもしれません。
とはいえ、訳者として、原書を読み、新即物主義の画集やワイマール共和国時代の写真集に目を通し、原稿の推敲を重ね、編集者とのやりとりを進めるうちに、ただのオマージュではないのではないか、という気持ちも芽生えてきました。最初に原書を読んで衝撃を受けた、過激なまでにありのままで、それでいてエロティックさのかけらもない人の体の描かれ方や、どうしてそうなってしまうんだろうと思うけれど、人間ってそうなんだよね、と、納得するしかない現実に即した描写は、新即物主義のスタイルそのものではないだろうか、と感じたのです。もしかしたら、『ベルリン 1928-1933』は「新即物主義のグラフィックノベル」とでも呼ぶべきもので、もしジェイソン・リューツがワイマール共和国時代に生きていたなら、「新即物主義のコミック作家」と呼ばれていたかもしれない、などと、思いをめぐらせています。
上にも書きましたように、新即物主義の多くの芸術家たちは、ナチスの時代に迫害を受け、作品を制作・発表する機会を奪われました。とくにジャンヌ・マメンやドド(デルテ・クララ・ヴォルフ)のような女性画家は、日本語でとりあげられることがほとんどありません。ささやかではありますが、このページが、古くて新しいアート作品に出会うきっかけになれたらと願っています。そして、このような歴史がくりかえされることが、ありませんように。