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ウィザードブックシリーズ Vol.222


スーパーストック発掘法 スーパーストック発掘法
25億ドルもの株式を売買し、市場と3万時間格闘したトレード術


■序文

 本書は、これまでの投資の伝統を打ち破ることで考えられないようなリターンを手にした私の実話を書いたものだ。私のポートフォリオは、ドットコムバブル崩壊後に世界で最高のリターンを上げた個人ポートフォリオの1つだ。私のトレードスタイル「スーパーストック」はだれにでも向くわけではない。計算されたリスクを受け入れるだけでなく、ときおり発生する大きな失敗にも耐えられるような人向きだ。このケーススタディーは、大きな夢を持ち、市場に対して情熱を持っている人のためのもので、臆病な人や気弱な人のためのものではない。

 本書は世界中のあちこちの国を旅行しながら書きためたものをライフワークとしてまとめたものである。これまで長年にわたって集めてきたすぐに使える知識を余すことなく含め、改良に改良を重ねて出来上がったものが本書である。市場の歴史のなかに登場するビッグウィナー(儲かる株)の性質についてありとあらゆることを研究した結果が本書である。

 本書は、25億ドルもの株式を売り、3万時間市場と格闘した結果の集大成と言ってもよい。私の成功からできるだけ多くのことを学んでほしい。私の失敗からもより一層多くを学んでほしい。

 本書では、ポートフォリオマネジメント、分散化、債券、通貨、抽象的な理論は扱っていない。ここで書かれている個人的な経験はすべてウソ偽りのないもので、実例もすべて私のトレード経験から得たものだ。

 私の手法はシンプルだ。奇をてらうようなものは何もない。ファンダメンタルとテクニカルが両方とも非常に良くて、株価が安い銘柄を探すだけである。ほかの本とは違って、本書は「怠惰な人間が簡単に大金持ちになれる絶対確実」な方法を書いたものではない。「絶対確実」な方法があれば、だれもが百万長者になっているはずだ。私の手法はシンプルではあるが、初心者にとってこの手法が「第二の天性」になるには、まずは本書に書かれている基本的な投資の法則を習得する必要がある。

 したがって、本書は「週末の読書」というよりは、随時参照する「教科書」的なものとして使ってもらいたい。市場は八百長ゲームだ。だから、まずはこのゲームの基本的な法則を理解・習得しなければならない。この競技場で頭角を現すには、まずはゲームの基本を理解することが不可欠だ。

 人生に保証なんてない。しかし、正しいツールを使い、正しいことに注目し、優れた洞察力を持てば、個人投資家として何百万ドルも儲けることは決して夢ではない。

 本書を読むに当たっての注意事項


■第1章 私のストーリー

「戦争を学ぶことと、戦士として生きることは別物だ」――アルカディアのテラモン(紀元前5世紀の傭兵)

 人生というものは望むものは何でも手に入れられるものだと信じてきた。「25セント硬貨が欲しいと思えば、25セント硬貨を手に入れることができるし、信じられないような成功が欲しいと思えば、信じられないような成功が手に入る」。ジム・キャリーの有名なエピソードに倣って、私は1997年に100万ドルの小切手を自分あてに書いた。2007年の32歳の誕生日に小切手を現金化するのが私の夢だった。推定5万ドルの給料と毎年20%の投資利益からせっせと貯金すれば、32歳までに100万ドルを貯めるという私の夢は達成できると思っていた。

 当時、これはとっぴな考えでとても実現できるとは思えなかったが、物事はビッグに考えることが重要だ。数週間後、その小切手を古い銀行書類と一緒にしまい込み、15年間忘れたままになっていた。本書を書くに当たって古いトレードの書類を探していたときに、この小切手が偶然見つかった。今にして思えば、それは小さすぎる夢だった。

 若いとき

 大人になっても金融の道に進むとはまったく思っていなかった。正直言って、この分野のことは何1つ知らなかった。ただ1つはっきりしていたのは、法律の道には進みたくないということだった。私の親戚には弁護士をやっていたり法律事務所で働いている人が7人いたのだが、法律用語の飛び交う退屈なディナーの会話には全然ついていけなかった。やりたくないことははっきりしていたが、何をやりたいのかは分からなかった。

 ジョージア州アトランタのエモリー大学では経済学を専攻した。父からのアドバイスもあってこう決めたのだが、数年間あれこれと悩んだ末、追究すべき道を決めた。大学2年のときに経済学の基礎を学んでいるとき、株式市場への興味が膨らんできた。私が株式市場に興味を持ったのは、株式に投資することで莫大な富を手に入れることができるのではないかと思ったからだ。

 このクラスを取るための必須条件はウォール・ストリート・ジャーナルを読むことだったので、私は毎朝ウォール・ストリート・ジャーナルを読み始めた。私の興味を引いたのは「Money and Investing」で、なかでも毎日の「biggest gainers(大きく儲かった株)」というリストには魅力を感じた。市場というものは、お金を預けても長い年月かけて少しずつしか増えないものだと思ってきた。ところが、「ホット」な株式に投資した人たちは1日で50%や100%やそれ以上儲けているではないか。これを知ったときにはショックだった。もしかすると、大きな動きをする前にこうした銘柄を見つけることができれば、株式市場で莫大な富を手にいれることができるのではないか。素晴らしいことじゃないか。

 それからというもの、ウォール・ストリート・ジャーナルを片手に「つもり売買」を始めた。インターネットはまだ普及していなかったので、私は大きな動きが予想される銘柄を新聞で選んでいた。私はピーター・リンチのモデルに従って、コカ・コーラ、デルタエアライン、ナイキ、自動車メーカー、ファストフードフランチャイズといった私のよく知っている銘柄を選んだ。ボストンチキンやポロトロピカルが大好きで、1週間に何回も買っていたため、これらの銘柄には絶対にホームラン銘柄になってもらいたかった。

 時間がたつにつれて、私のつもり売買の結果は月並みなものになっていった。市場全体でさえ打ち負かせないのではないかと思えてきた。それから数年たって、市場で大きな成功を手に入れるには、「よく知っている」銘柄に投資するのではなく、「よく知らない」銘柄に投資することであることが分かってきた。これについてはあとでじっくり議論する。

 つもり売買をしているとき、メリルリンチのインターンをしている学生を紹介された。「失明者を治す」薬を開発中のバイオテク企業についての情報を教えてくれた。もう何年も前のことなのでその会社の名前は思い出せないが、私の新しい友人が言うには、その会社の薬は数週間以内にFDA(米食品医薬品局)に認可される予定なので、この会社は10億ドルの企業になるだろうということだった。

 このニュースが発表されれば、この会社の株価は0.20ドルから10ドルや15ドルに跳ね上がるだろうと彼は予測していた。人生でこれほど興奮したことはない。私は新しい友人に礼を言って、すぐさま近くのブローカーに行き2000ドルで口座を開設した。75ドルの手数料を差し引いて、その会社の株を買えるだけ買った。この株が私をお金持ちにしてくれるのは時間の問題だと思っていた。

 そのあとの数週間にわたって、このバイオテク会社の株価は徐々に下がってきた。私はすぐさまこのメリルリンチのインターンに電話して、何か情報はないかと聞いた。「万事うまくいっています」と彼は自信をもって言った。「すべてうまくいっているので、株は保有し続けてください」とブローカーが言うような口ぶりで彼は強調した。

 それから何週間、何カ月とたつごとに、私のペニー株は下がり続けた。株価はじりじりと下がり続けていった。そこにビッグニュースが舞い込んだ。その薬をFDAは「認可しなかった」というニュースだった。これでは株価が上がるはずがない。そのニュースが発表されたあと、その会社の株は崖から突き落とされるように、一晩で紙くずになった。私が始めたつかんだ耳寄り情報のおかげで、私は全財産を失った。私は敗北を認め、口座を閉鎖して、大学に戻った。

 それから2年後、大学を卒業してバンクーバーに移り、小さなテクノロジー会社のインターンになった。私の仕事は株式をバンクーバー証券取引所からナスダックに移行させることだった。数週間インターンとして働くうちに、私はその会社のテクノロジーに夢中になった。その会社は世界中の公益事業会社のために天然ガス流と水流を監視するデバイスを開発していた。良いCEO(最高経営責任者)は言い方を知っているものだ。私のボスは、この会社はもうじきすごいことになる、この会社の0.30ドルの株式は長期投資に打ってつけだと言った。

 私の同僚もこの会社の将来を有望だと思っていたらしい。私は彼の言葉を鵜呑みにして、同僚たちに倣って株を買うことにした。その夜、疑い深い父を説得して、その会社の株式の購入資金として3000ドル用意してくれるように頼んだ。ペニー株は敗者のゲームであることを私に教えるのに、3000ドルは安いものだと父は思っていたらしい。カナダのブローカーで口座を開設して数日で、私はその会社の1万株の株主になった。

 しかし、その会社の株価は下がる一方だった。株価が下がるのは私の会社での働きが悪いせいか。そのうちにその会社のCEOは事業を拡大することよりも資金調達のほうに力を入れていることが分かってきた。それでも彼は時折、この会社の株は長期投資に向いているからと言って私を安心させた。この身分の低いインターンは彼のセールストークを信じ続けた。

 次の数カ月にわたって株価が下がり続けるのを見て、私は「買って祈る」メンタリティーになりつつあるのを感じた。株式のナスダックへの移行は一向に進んでいなかった。ナスダックがバンクーバーのペニー株を欲しがるはずはなかった。

 次の数カ月はほかのベンチャーへの就職活動で忙しく、その株のことは忘れていた。1年かそこらたって、その株式はバンクーバー証券取引所から上場廃止になり、無価値と化したことを知った。幸いだったのは、法外な売却手数料を取られなくて済んだことくらいだった。こうしてまた全財産を失った。でもこの一件で、ペニー株に投資するのはカモになるようなものだということを学んだ。今のスコアは、ミスター・マーケット2勝、ジェシー・スタイン0勝で、ミスター・マーケットの勝ち。

 1998年、アトランタに戻って学生向けランドリーサービスを始めた。株価市場が世界的に急上昇する数カ月前だった。株式への高揚感が高まり、CNBCが「必見」テレビへと変貌するなか、ゲームに戻らなくてはという思いに駆られた。仕事で貯めた1万ドルで、オンラインブローカーのアメリトレードに口座を開設した。

 自分の知っているものに投資しろ、というピーター・リンチのアドバイスに再び従った。当時、私はアメリカオンラインを毎日使っていただけでなく、ほぼ毎週「無料のスターターキット」の1つをメールで受け取っていた。同じころ、CNBCのスクリーンに1日中流されるAOLのティッカーシンボルにぞっこんほれ込んでいた。私は思い切って財産の一部をAOLにつぎ込んだ。若干の儲けが出たあと、やるべきことは国を席巻している現象に乗ることだと思った。ほかの大勢と同じように正真正銘の「デイトレーダー」になることが自分のやるべきことだと思った。

 2005年の南フロリダの不動産業者のように、今やアトランタのだれもが「デイトレーダー」と化していた。マーク・ボートンを覚えているだろうか。それはともかくとして、次の数カ月はランドリーサービスはお休みして、月曜日から金曜日まで1日中コンピューターの前に座って市場の日中の動きを追った。

 利益を増大させるためには、「証拠金」や「レバレッジ」のボタンを押してブローカーからお金を借りることができることを知った。信用取引を行うことが大金を稼ぐ確かな方法のように思えた。結局、AOL、AMZN、EBAY、CMGI、MSFTをはじめとするドットコム企業にレバレッジをかけた。毎日の動きに心は躍った。得られる利益は私をとりこにし、これまで経験したことがないほどの高揚感に浸った。だれも私と同じことをすればいいのに。こんなに簡単なんだから。でもそれは1998年秋、アジア金融危機が世界を襲ってから一変した。

 6週間でドットコムバブル株のほとんどが50%から70%下落するなか、ナスダックは37%下落した。私は穴から這い出ようと復讐心に燃えてレバレッジを増やし続けたが、数週間もするうちに再び全財産を失った。フルタイムのデイトレーダーという夢は一瞬のうちに消えた。また、何もかも失ってしまった。勝利のないまま、スコアは3対0になった。もう二度とトレードなんて、投資なんてするものかと心に誓った。市場は一般投資家が負けるように悪ふざけをやっているとしか思えなかった。私は再びランドリーサービスに戻った。

 次の3年間は市場のことを考えることは一切なかった。市場の歴史最大の上昇は逃したが、トレードを恋しく思ったことはない。そして私は商売をたたんで、ビジネスの修士号を修得するために大学に戻った。生計のために係員付き駐車サービス会社のマネジャーとして働いた。20代なかばで大学に戻り、そこそこのお金を稼ぎ、夜は同僚の学生や仕事仲間と繰り出すという毎日を送った。人生最高のときだった。  人生というものはサイクルで動くものらしく、良い時期はそう長くは続かない。2001年12月12日、人生が突然一変する事態に陥った。

 2001年12月12日

 その日の朝、何と言えばよいのか分からないが、急性錯乱状態で目が覚めた。「頭にもやがかかった」ような状態だった。突然、情報処理ができなくなってしまったのだ。私の認知能力は一晩のうちに失われてしまった。それからの数日間、私の心身には次々といろいろなことが起こった。

 最初は右側の大腿部がけいれんし始め、それは数週間続いた。その次は、背中の下のほうが強く震え始めた。ちょうど電子ハンドマッサージャーからくる、あんな振るえだ。さらに悪いことに、体のバランスが取れなくなり、毎日のランニングができなくなってしまった。日々の生活にも支障を来すようになった。お金を数えたり、鍵穴に鍵をさすといった簡単なことも難しくなっていった。以前は簡単にできていたこんな作業が何回も、ひどいときは何十回もやらなければならなくなった。

 言葉を発するのさえ困難になり、話している途中で何度も中断し、話がとぎれとぎれになることもしょっちゅうだった。シャワーを浴びたあとは異常に疲れ、ベッドに倒れこみ、15分ほどしなければ立ち上がれなかった。私のシステムが1つずつ停止し、私の人生は目の前で瓦礫のように崩れていった。スピードをあげて走ってくる貨物列車に不意打ちを食らったように感じた。

 最も不安だったのは、自分の周りで何が起こっているのか理解することができないことだった。教授の言っていることをほとんど理解できないまま、無力感を感じながら教室に座っていた。簡単なテレビのショーさえ意味が分からなかった。ある晩「フレンド」を見ていたのだが、内容がさっぱり分からなかった。その瞬間、涙があふれてきてとまらなかった。

 何とか理解しようと努めていたとき、前の夏、数カ月間、左目の視力に問題があったことを思い出した。視力の問題が今の状態と関係があるのだろうか。風邪とインフルエンザにかかった以外、これまで病気らしい病気にかかったことはない。私はまだ26歳なのに、どうしてこんなことが起こるのだろう。ショックだった。早期の脳卒中としか思えなかった。

 それからは緊急治療室とドクターのオフィスを行き来する毎日だった。ドクターはありとあらゆる検査を行った。恐れたのは、多発性硬化症が原因ではないかということだった。多発性硬化症は数週間検査を行っても最終的な結論は出ない。私は突然死ぬかもしれないという恐怖にいつも襲われていた。恐怖というものをあなどってはいけない。

 2002年2月の第2週のある晩の午後8時30分ごろ、ジョージ・ウィンストンを聞いていたときのことだ。2カ月前にこの恐ろしい症状に襲われて以来初めて、音楽を理解し、聞き、感じる能力が突然よみがえったのだ。長い間、頭のもやもやにさいなまれて、隔離された囚人だった私の認知能力がほんのわずかでも戻ってきたことに歓喜した。その瞬間から、数日たつにつれて私の症状は治まり、2週間もすると以前の自分にほぼ80%戻っていた。

 それからの1年間かそこらは、1つか2つの症状が同時に短時間だけ現れたが、身体を衰弱させるほどのものではなかった。10年たった今、私はすこぶる健康だ。第5章の「良いトレーダーになるために」を見ると分かるように、身体を健康に保つために私はあらゆる努力を行っている。

 インスピレーションは絶望から生まれる

 苦あれば楽あり、ということわざがあるが、健康問題の最中は、何百時間も使って多発性硬化症について調べられるかぎりのことを調べた。健康問題のあった2カ月間は、多発性硬化症の薬とセラピーのエキスパートになったほどだ。すぐに分かったことは、市販されているわずかばかりの薬は多発性硬化症患者には何の効果もないということだった。この間、何か効果のありそうなセラピーはないかと多発性硬化症の掲示板を渉猟する毎日だった。薬のいくつかは症状を若干抑えるのに効果はありそうだったが、発作の回数を減らしたり、脳障害の重症度を緩和するのには効果はなかった。市販の薬はほとんど効かないのに、患者たちはそれらに何十億ドルものお金を使う。この病気は身体をすこぶる消耗させるので、この病気にかかった人は症状を少しでも緩和させるために、いくらお金がかかっても薬を買うのだ。

 この恐ろしい病に苦しむ人々が実際には効かない薬に何十億ドルも使うのなら、実際に効く薬の潜在的市場はどれくらいのものになるだろうか。そんな薬を開発した人は宝くじに当たったも同然で、一晩で全市場を支配することができるだろう。薬代をいくらにでも吊り上げることができるのだから。

 私の調査によれば、チャットルームに何回も登場する薬が1つあった。この薬は初期の臨床試験では多発性硬化症の脳障害の90%を取り除くと考えられていた。この薬は症状の大幅な緩和と発作の回数の大幅な減少につながるのは明らかだった。こんな奇跡の薬があれば多発性硬化症患者にとっての真の聖杯になるに違いない。この奇跡の薬の名前はアンテグレンで、この薬の臨床試験を行ったのはアイルランドのエランという会社だ。

 症状が治まった数カ月後、この薬とこの会社についての調査を始めた。私の関心を引いたのは、エランの株価が前の数カ月で63ドルから1ドルに下落していたことだった。株価の大暴落は、この会社の薬がほかの薬に負けたことと、「簿外取引」に関連する不正会計によるものだった。

 少し本題からはそれるが、しばらくお付き合いを。8週間の心身の障害を経験したあと、私には未来のチャートパターンが見えるようになったのだ。これまで株価チャートやテクニカル分析には特に気をとめることはなかったが、突然、私の心がチャートパターンに引き寄せられるようになったのだ。そのとき以来、チャートパターンがいつも頭から離れなくなった。

 エラン(ELN)のチャートパターンの場合、強力な「ベース」(保ち合い期間)を形成したあと、大きく上昇するというパターンが見えた。それからの10年、私は新しいチャートパターンを見るときはこの「第六感」に頼ってきた。この潜在意識下の能力によって、テクニカルインディケーターを分析しすぎることはなくなった。テクニカルインディケーターの分析ほど私を混乱させるものはない。そのうちにこの能力は私独特のものでないことが分かってきた。これは多くのトレーダーが試行錯誤しながら技に磨きをかけるうちに、長年にわたって自然に身につくものなのだ。

 それでは本題に戻ろう。公表されているデータが示すように、エランのアンテグレンの効果が20%だとすると、この薬は市場で優位に立ち、年間売り上げは50億ドルは下らないはずだ。多発性硬化症の症状は過酷なので、この薬が市場に出回らないようにするような深刻は副作用は実質的にはないはずだ。

 一方、この薬が成功するかどうかについてはアナリストの世界では強い疑念があった。この薬がFDAに承認されれば大金になるが、そもそもこの薬が世に出るのかどうか彼らは疑問に思っていたのだ。アナリストの多くはこの薬の成功率は50%未満と見積もった。私は彼らの評価には同意できなかった。多発性硬化症に似た症状を経験した者として、彼らが多発性硬化症コミュニティーからこの薬を取り上げることはできないと強く思った。

 私は時価総額5億ドル(ペニー株よりもはるかに大きな時価総額)の1.25ドルの株に魅力を感じていた。私は最終的にはこの薬の年間売上高は50億ドルになると見ていた。私の計算でいけば、この薬の売上総利益は90%上昇して、年間利益は40億ドルを超える。現在開発中の大ヒットになると思われるほかの薬を除けば、エランの時価総額は最終的には800億ドルに達するはずだ。つまり、今の時価総額500万ドルの160倍である。

 こんな予測はバカげているように思うかもしれないが、数カ月前は株価は今の30倍だったのだ。その水準に戻るかもしれないじゃないか、と私は思ったのだ。CEOは公開市場で何十万ドル分もの株を買ったことをアイルランドで申告していた。

 私は、下落する確率がわずか1倍で、上昇する確率が80倍から160倍と信じている株を見つめていた。リスク・リワード・レシオが私に有利な方向に著しくゆがんでいるなんてものじゃない。市場を離れて4年。2002年10月には私は2万2000ドルの貯金のすべてをつぎ込んで(そう、私はろくでなしだ)、1.25ドルのエラン株を買った。

 それからの3カ月、株価は1.25ドルから4.45ドルへと上昇した。初期投資の2万2000ドルは8万ドルに膨れ上がった。27歳にして市場で初めて味わった成功だった。しかし、私の計算によれば、株価の上昇はまだ始まったばかりだった。これからもっと上がるはずだった。

 こんなことマーケットの神様だって予想できやしないだろう。2カ月後、エランはアンテグレンを取り下げることを発表した。株価はみるみる60%も下落した。私は恐ろしさのあまり立ち尽くすしかなかった。まったく信じられないことだ。今やスコアは4対0だ。

 レバレッジをかけていなかったので、およそ3万5000ドル分の株式は残った(少しは儲かったのだ)。それで、自分の理論に従ってそのままにしておくことにした。発表の日に安値を付けて以来、次の10週間、株価が下がる日はほとんどなかった。エランの株価は2.25ドルから9ドルまで上昇した。ブローカーをTDウォーターハウスに変えて、あれこれとトレードして、信用取引もやっていると、3万5000ドルは10週間で16万5000ドルになった。エランのおかげで、私の知るかぎり私の年齢層のなかではだれよりも純資産が増えた。28歳の誕生日を目の前にして、新たな資産の増大を友人たちと祝わずにいられなかった。

 2003年6月26日の28歳の誕生日の朝、誕生日にやるべきエキサイティングなことは何かないかとコンピューターのスイッチを入れた。金融サイトを見ると、エランの大きなヘッドラインに目が行った。エランはアンテグレンの臨床試験に参加した患者のごく少数に致命的な脳の感染症が見つかったと発表していた。このニュースがエランの株価にとっても、私にとっても良くないことは明らかだった。今やエランの命運はこの薬にかかっていたため、その日、株価は大暴落した。

 レバレッジをかけていたため、誕生日に口座はほぼ壊滅した。数週間前に高値を付けてから、私の口座はいきなり16万5000ドルから3万6000ドルに目減りした。また振り出しに戻ってしまった。こんなことが再び起こるなんて信じられなかった。しかも、私の誕生日に。ショックだった。完全に打ちのめされた。その日の朝、エランの株を全部売った。それまでに儲けたお金は1ペニーも残らなかった。今やスコアは5対0(注 結局エランはバイオジェンとアンテグレンを共同開発して販売することになった。この薬は今ではタイサブリとして知られている。タイサブリは今市販されており、アナリストは2016年までには年間売上高は30億ドルになるだろうと予測している。私が5ドルでエランの株式を売ったあと、エランの株価は次の12カ月で30ドルになった)。

 学習の加速期

 つい最近のつまずきのあとしばらく放心状態に陥ったが、適切な調査を行えば、市場で短時間で大金を稼ぐことは可能だということを直接的に体験して分かった。私がエランに偶然出くわしたのは、私の健康上の問題と関係があることは明らかだった。同じやり方で大儲けできる株を探すのは難しいことを私は悟った。

 バイオテク株で3回大失敗したあと、もっとリスクの低いセクターに目を向け始めた。上昇する前に大儲けできる銘柄を見つける確かな方法はあるのかないのか。この火急の問題に夜も眠ることができないほど悩んだ。1回小さな成功を収めたことで私のなかの情熱に火がついた。これは死ぬまで燃え続けるに違いない。

 エランの1件から回復すると、次に大儲けできそうな株を見つける「秘訣」を発見することが私の唯一のミッションになった。私はついに人生における天職を見つけた。その日以来、できるかぎりベストな投資家になろうと決心した。ほかのだれよりも優れた投資家になりたかった。情報を手に入れるためにトレードや投資に関するあらゆるものを読んだ。昼間は図書館で過ごし、夜は投資に関する情報を探すために金融サイトを渉猟した。

 ニコラス・ダーバスの『私は株で200万ドル儲けた』(パンローリング)、エドウィン・ルフェーブルの『欲望と幻想の市場――伝説の投機王リバモア』(東洋経済新報社)、ジャック・シュワッガーの『マーケットの魔術師』シリーズ(パンローリング)、バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー』(日本経済新聞出版社)、ピーター・リンチの『ビーティング・ザ・ストリート(Beating the Street)』、ウィリアム・オニールの『オニールの相場師養成講座――成功投資家を最も多く生んできた方法』(パンローリング)といった投資の古典を読み漁った。最もためになったのはオニールの『オニールの相場師養成講座』だった。彼の手法は極めてシンプルで、彼の本は大きな動きがある前に大儲けできそうな株を見つけるのに打ってつけのように思えた。

 何年か前、「セメスター・アット・シー」(キャンパスは船の上、アメリカを始め世界各国からの学生が1学期間寝食を共にし、寄港地ではその国の文化を体験学習する)で南アフリカのケープタウンを訪問したとき、アンソニー・ロビンスの『一瞬で自分を変える法』(三笠書房)という本に出合った。この本のメーンテーマは、人間の優れた行動をモデリングするマジックだ。人生のあらゆる局面において究極の成功を手に入れるには、他人の優れた行動をモデリングすることが必要だと彼は説いていた。そのためには、あなたの分野の最も成功した人々を見つけて、それをあなたの成功の設計図として使うことが重要だ。私はロビンスのアドバイスに従って、市場で最良のトレーダーを探すことにした。特に私が求めていたのは、ウィリアム・オニールの原理を習得したトレーダーだった。

 私はインターネットを徹底的に調べて、市場で最良のトレーダーを見つけようと試みた。最初はあまりうまくいかなかったが、最終的にはトレードのメンターを見つけることができた。彼らについては本書の第5章の「メンター」の項で詳しく話す。今にして思えば、このときの集中的な独学が私の人生を変えたと思っている。

 新しく発見した知識を頼りに、最良のトレーダーを探すための基準リストを過去の偉大な勝利者の質に基づいて作成した。次に、このチェックリストを、「投資可能な」パワフルなチャートパターンに結びつけた。テクニカル基準とファンダメンタル基準の両方を満たす銘柄にのみ集中するのだと自分に言い聞かせた。次の数カ月間、私の厳格な基準のすべてとはいかなくても多くを満たす2〜3の銘柄に集中的に投資した。

 私の人生を変えた「階段」

 2003年9月下旬、新たなチャートを見ていると、見たことのないチャートパターンに気づいた。その銘柄は1年前には20ドルを超えていたのに、0.25ドルに下落していた。0.25ドル辺りで底を付けたあと、数カ月間横ばい(「ベース」)が続いた。その横ばい状態からブレイクアウトすると、株価は一気に0.75ドルまで上昇し、数週間その水準で推移した。そのあと1.50ドルまで上昇して、またその水準で推移した。その後、1.50ドル、2.50ドル、4ドルで同じパターンを繰り返した。その銘柄はいわゆる完璧な「階段」パターンを描いていた(この例は第12章で見ることができる)。こんなにパワフルなチャートパターンはこれまで見たことがなかった。その会社はTRMコーポレーション(TRMM)だった。

 TRMコーポレーションのファンダメンタルズを詳しく調べてみると、驚くべきことを発見した。まず私の目を引いたのは、この会社は1年前の同じ四半期には損失を出していたが、最も直近の四半期では1株利益が0.16ドルになっていたことだ。SEC(証券取引委員会)に提出された何百ページにも及ぶ10q(四半期報告書)と10k(年次報告書)を調べてみると、この会社が継続的に利益を出していることは明らかだった。

 TRMコーポレーションは次の2〜3四半期のどこかから1株利益は0.30ドルに上昇すると私は予想した。最も驚いたのは、会社の重役たちがみんな公開市場で上がり続ける株価でその会社の株を買っていたことである。インサイダーによる買いは数日ごとに行われているようだった。こんなことは今まで見たことがなかった。

 将来的な1株利益の上昇に裏づけされて完璧なチャートパターンを描く4ドルの株は、次の2〜3四半期には24ドルから36ドルになると思わせるに十分だった。

 調査を終えた私は、次の2週間にわたってこの銘柄を何回かにわたって大量に買った。極端に好ましいリスク・リワード特性を見て、何の恐れを抱くこともなく、ためらうことなく買った。オレゴン州ポートランドを拠点とするこのATMマシンとコピー機の会社の株は大ヒットになること間違いないと期待した。株価が5ドルの大台を超えると、私は確信を強め、レバレッジをかけて買い増しした。

 次の2回の決算報告では私の最初の理論は正しいことが証明された。次の2四半期には、EPS(1株利益)は0.20ドル、0.31ドルと上昇した。株価が上昇すると、押すたびにレバレッジをかけて買い増しした。横ばいだった株価はベースからおよそ45度の角度のチャネルで上昇していった。数カ月後、チャネルをブレイクし、放物線状(角度はさらに急峻になって、ほぼ垂直状態)に上昇し、株価は27ドルを超えた。

 7カ月ちょっとで、最初4万6000ドルだった口座は80万ドルにまで膨れ上がった。私の独学と研究の成果だった。

 ご察しのとおり、株価が放物線状に上昇すると、株主たちは狂喜した。株価は私の目標価格に達していたが、ここまで上昇すると会社の未来は明るい、と思うのが普通だ。ヤフーの掲示板では、株価は次の数カ月で60ドルにまで上昇するというのがみんなの一致した意見だった。株主たちは陶酔感に酔いしれた。毎日がパーティーだった。

 価格目標、陶酔感、放物線状のチャートパターンについては、今では以前よりもはるかによく分かっている。株価が放物線状に上昇したあと何が起こるかもよく知っている。しかし、当時はこれらのことに関してはほとんど知らず、破顔して興奮の波に揺られていた。

 株価が27ドルを上回ったあと、数日間、家族に会うためにラスベガスへと飛んだ。TRMコーポレーションが世紀の大躍進を遂げたあと、私の気分は最高だった。ラスベガスへの里帰りは絶好のタイミングだった。  そう思っていた。

 2004年5月17日、ラスベガスに戻って2日目、朝目を覚ますとTRMコーポレーションは大きく売られている最中だった。垂直状に降下したあと、チャートは古いラスベガスのホテルに起こったのに似た形で崩壊していった。ホテルの部屋でショックを受けた私は、ポジションの大部分を安い価格で手仕舞うことを余儀なくされた。大きなレバレッジをかけていたため、私の80万ドルの口座は1日で15万ドルにまで目減りした。キャリア最大の大失敗を喫したあと、余暇の残りは最悪だった。

 まだ数えているのなら、スコアは今や6対0だ。キャリアを重ねていくたびに、ポートフォリオの波はどんどん劇的になっていった。1回失敗するごとに、ポートフォリオの価値はどんどん下がっていった。  大失敗はしたものの、どういったタイプの株式が大きなリターンを提供してくれるかが分かってきた。もっと重要なのは、今や私は自分と自分の投資能力に自信を持つことができるようになったということだった。これまでと同じように、自分に向かい合い、自分を取り戻すために数週間市場から遠ざかった。でも、私は必ずリベンジする。

 歴史は作られる

 2004年5月の暗黒から立ち上がった私は、依然として将来大儲けできそうな銘柄を探す原理に執拗に従い続けた。次の2年間、朝起きた瞬間からコンピューターに向かう日が続いた。週に90時間、コンピューターの前に座り続けて、全市場で大儲けできそうな銘柄を探した。TRMコーポレーションの大失敗から20カ月、いよいよ私は乗り出した。

 努力が報われるまでの日々はけっして簡単なものではなかった。途中何回も深刻な口座のドローダウンに耐えなければならなかった。紆余曲折はあったものの、私のポートフォリオは15万2000ドル(6月4日)から26万7000ドル(10月4日)、58万6000ドル(12月4日)、123万ドル(2005年2月5日)、213万ドル(5月5日)、446万ドル(7月5日)、580万ドル(9月5日)、そして2006年1月には680万ドルへと上昇していった。この間、ほかの収入源はなかった。ポートフォリオがどんどん上昇していくのを見るのは実にエキサイティングなものだ。

 口座が100万ドルの大台に乗ったとき、売りたい衝動に駆られたり、自己満足してしまうことに堪えるのが最も難しかった。踏ん張るのは本当に大変なことだった。「利を伸ばす」という言葉の意味が今ではよく分かる。これは容易なことではない。そのためには大きな自信が必要だった。

 この時期からのビッグウィナー(大儲けした銘柄)については第12章で詳しく話す。

 お金

 2006年にフロリダのパームビーチにある新しい会計士事務所に初めて足を踏み入れた日のことはよく覚えている。2〜3分雑談をしたあと、彼は今大きな純資産を持つ個人客で忙しいため、H&Rブロックのような費用のあまりかからない国の税務サービスでアシスタントを探したらどうかと言った。そのあと、過去数年分の報告書を彼に見せた。数ページめくったあとの彼の反応は忘れない。彼は顔を上げて、「何かの冗談ですか?」と叫んだ。彼は立ち上がると部屋のドアを閉めた。「こんなものは見たことがない!」と彼は興奮して言った。彼が私をクライアントにしたのは言うまでもない。

 私にとってお金は時間、自由、充実した経験を意味した。市場を打ち負かすことが私の最大の動機だったが、大金が手に入ればそれはそれでよいことだ。30歳で数百万ドルの流動資産を持ち、実質的に間接費はかからない。私の熱心な努力に対して褒美をあげる時期だと思った。

 口座残高のコンマの数は、私が夢見ていたことを実行に移す機会を与えてくれた。今や私は何でもできた。子供のころから欲しかった車を買ったり、パイロットになるための訓練を受けたり、夢のマンションを手に入れたり、世界中を旅したり、グルメディナーを主催したり、慈善寄付をしたり、啓発的なスピーチをしたり……。次の2年間、未来のビッグウィナー探しを楽しんだが、何よりも、私は自分の勝利と究極の充足した生活を楽しんだ。

 実のところ、お金を手にいれても「ショッピング」についての私の考え方は変わらなかった。今でもショッピングモールは1年か2年に1回しか行かない旅行のようなものだ。それでも十分事足りるのだ。ショッピングモールに行くことほど嫌な時間の使い方はない。1990年代に買ったオールドネイビーの服を今も着ているが、それで十分満足だ。

 賭け

 2008年に早回ししよう。そう、あの2008年だ。その当時、彼女と別れて傷心状態の私は、世界市場が崩壊するのをサイドラインから見ていた。2008年の市場の崩壊の規模を考えると、やっていけるトレーダーは少なかったと思うが、能力のある数少ないトレーダーはペニーを拾い上げて富を築いていたのではないかと思う。私は再び大きく上昇したときに備えて、有利なリスク・リワードのセットアップを探しながら、毎日実績のあるインディケーターをいくつか監視していた。数週間後、テクニカルとセンチメントの数字は市場は史上最大の売られ過ぎ状態であることを示していた。

 私が監視していたすべてのインディケーターは一見すると、市場に戻っても安全なことを示していた。売られ過ぎ状態になると平均回帰のバウンス・バック・ラリー(いったん押したあと上昇すること)によって市場は数日内には15〜20%上昇するというのが一般的だ。計算されたリスクテイカーとして、私は市場に戻るとき、私の実証された「稼ぎ頭」であるスーパーストック戦略はひとまず脇に置いた。それは反発のタイミングを計るという大胆な戦略だった。グローバル市場の下落の大きさを考えて、私は慎重を期した。

 レバレッジを最大化するために、コールオプションとトリプルロングのETF(上場投信)をレバレッジをかけて買った。複利効果を考えると、市場が20%上昇すれば、私のポートフォリオは2〜3倍になる。歴史は繰り返すものだ。仕掛けてから数日以内に大きく上昇するはずだと私は信じて疑わなかった。これは私のキャリアのなかで決定的なトレードになると私は確信していた。9桁の純資産に押し上げてくれるトレードになると。私は全財産を投資した。私の確信には確固たる自信があった。

 そのあとの日々には絶対に戻りたくない。一世一代のトレードを追い求めて、私は自分のトレードルールをすべて無視した。2008年を経験した人ならだれでも分かっていると思うが、私は間違っていた。完全な間違いだった。コールオプションと使ったレバレッジが大きかったため、投資額のおよそ75%を失った。わずか数日で、700万ドルもの損失だ。懸命に働いて稼いだ700万ドルが瞬く間に消えた。私は致命的な間違いをいくつも犯していた。レバレッジのかけすぎ、オプションの使用、落ちるナイフをつかんだこと、一般的な市場をトレードしたこと、損切り注文を置かなかったこと……、言い出せばきりがない。

 これまでの私の戦略はインサイダーの買いによって活気づいた、まだ発見されていないスーパーストックを見つけだすことだった。人間関係の悪化が判断ミスにつながったのだろうか。貪欲になりすぎただけなのだろうか。こんなことはだれにも分からない。分かっているのは、自分のルールを破ったのだから、どんな罰を受けても仕方ないということだけだった。

 人生の旅

 最近の大失敗の後遺症のなか、ティム・フェリスの『「週4時間」だけ働く。』(青志社)に触発されて、「ミニリタイア」するのもよいかもしれないと思った。今度のお休みは、得るものが大きくて元気を与えてくれた過去のお休みよりも長くなりそうだった。

 当時、「大恐慌2.0」の第1フェーズに入ると世界は崩壊する、と一般に信じられていた。長期のお休みに入るのなら、今ほどタイミングのよいときはなかった。

 何のプランもないまま、私はトレード活動を休止し、持ち物をすべてアトランタの3メートル×3メートルの収納庫に運んだ。

 拘束から開放されたあと、私は後ろは振り返らずに人生の旅に出ることにした。33歳。私を引き止めるものは何もない。そして私は正式に「ミニリタイヤ」した。

 シャツ5枚、ズボン2本、靴2足、短パン2枚、ボクサーパンツ7枚、iPod、ノートパソコン、そしてたくさんの本を小さなバックパックに詰め込んで、目的のない旅に出た。それからの3年半、ラオス、コロンビア、ペルー、エクアドル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、オーストラリア、タイ、マカオ、マレーシア、シンガポール、香港、インドネシア、中国を旅して回った。中国は33自治区のうち23自治区を回った。カナダにも足を伸ばし、2回のキャンプ旅行でアメリカの30州を回ったあと、戻ってきた。

 この旅は自己発見の旅だった。時計なんて投げ捨てて、テレビは一切見ず、人間の行動に関する本を片っ端から読み、仏教を学び、2回のハーフマラソンに参加した。ラオスでは「猫のウンチのコーヒー」を飲み、ジャングルやビーチで眠り、世界一のコンピューターハッカーの何人かに会い、4台の頼みにならないノートパソコンを使い尽くした。中国の成都の世界最大のトレードショーではカザフスタンのグルメチョコを売ったりもした。

 旅の途中、エクアドルではナイフを突きつけられて、タイではバスに乗っているときに850ドルの盗難に遭い、インドネシアをバイクで駆け巡った。数カ月間シャワーなしってときもあった。コロンビア南部の小さな掘っ立て小屋では腐敗警官に暴力を振るわれた。タイでは「ハッピーシェイク」を試飲し、犬が殺されて肉になるのを見たし、2500メートルから3600メートル級の山に何回か登り、中国では悪党のバス運転手に置き去りにされ、持ち物すべてを奪われた。長時間、にわとりやおんどり、豚のなかで暮らしたこともあった。

 旅の間はほとんどを田舎の小さな村で過ごしたが、開発途上国で出会ったほとんどの人は、アメリカの私たちよりも満足感に満ち溢れ、幸せそうだった。「シンプルなライフスタイル+借金ゼロ+独立したコミュニティー+太陽の光+仲の良い家族+毎日自然と触れ合う=いつも笑顔」という公式が成り立つことを発見した。

 アメリカに戻れないかもしれないことに気づいたのは、アメリカへ戻る4日前のことだった。パスポートを見ると、ビザのスペースが1インチもないことに気づいたのだ。それからの3日間は、ブエノスアイレスのアメリカ大使館とそのスタッフを熟知するほどになった。究極の官僚制度を説明するのにこれほど手っ取り早い方法はない。パスポートにページを加えるという簡単なプロセスに数日もかかったのだ。最終的には万事うまくいき、アメリカに戻ることができた。

 私の「リタイヤ」の最後の年だけで、12万5000キロも飛行機に乗り、2万5000キロも車を走らせ、200時間近く電車に乗り、300時間バスに乗り、バイクには無数時間乗った。リタイヤの間はトレードはやらなかったが、市場は綿密にチェックしていた。市場の最新情報を友人や家族にメールで送ったり、株式フォーラムへの投稿はしょっちゅうだった。市場から心理的にも肉体的にも離れていたが、投資への感覚や情熱は失ってはいなかったようだ。

 この間、ときどき特殊な状態の株式についてのメールを数十通配信したものの、ほとんどはセクターを予測するアラートや一般的な市場の変曲点に関するものだった。休んでいる間はトレードに引き込まれたくなかったので、できるだけスーパーストックは探さないよう心がけ、グローバルマーケット、セクターなどに集中した。

 お金にはならなかったが、マーケットコメントを書いて送ることを楽しんだ。これによって市場にかかわり、トレード仲間のネットワークともつながっていられた。こういった最新情報を書くことにトレード以上の満足感があったのには驚きだ。私のコメントが欲しい人は、遠慮なく連絡してほしい。

 家族や友人、それに市場や国からも離れることは、私の人生において本当に重要なのは何なのかを見直すのに不可欠だったような気がする。この旅はじっくりと考え、成長する一生に一度の経験だった。私は今、自分の人生において最も重要なことに集中している。それは、感謝、友情、家族、幸福、健康だ。

 トレード以外の生活が本当に貴重であることを悟った私は、常にクリエイティブであること、学習をやめないこと、安心ゾーンの外に出ること、もっと規律を身につけること、考え方を向上させること、常に活動的であることを意識的に心がけている。しかし、おそらく最も重要なのは、この世界にはずっと時間があるわけではないことを悟ったことだ。だから今は、普通のやり方とは違った独自の道を歩んでゆこうと思っている。ミニリタイヤから復帰した今、私はこれまでとは違った視点で世界を見ることができるようになった。これまでより10倍元気になり、やる気も満々だ。

 ドローダウンについて

「エキスパートとは、ごく限られた分野で、ありとあらゆる間違いをすべて経験した人物である」――ニールス・ボーア(物理学者)

 これまで書いてきた私のトレードの経歴のなかでは、「損失」や「ドローダウン」という言葉にはあまり気づかなかったかもしれない。私のキャリアのなかで経験した口座の大きなドローダウンや、そのあとの劇的な回復はハラハラするものだった。

 ドローダウンを喫するたびにどん底から這い上がり、何とか道を切り開こうとした。問題なのは、何回打ち砕かれたかではなく、何回再び立ち上がったかなのである。本当にトレードのことが好きでなければ、こうしたドローダウンを喫したあとはトレードなんてやめてしまって、何かほかのことをやっていただろう。苦しい試練から学んだことがあるとすれば、過去の失敗を責めるのは人生で唯一の罪だということである。

 私は損失をトレード教育のコストの一部と考えた。いろいろな経験をすることで、私は技を磨いてきた。こんな経験をするのは私一人じゃないことを知って少し安心した。事実、私が学んだ偉大な投資家は何回も全財産を失っているのだ。

 ヘッジファンドの億万長者であるジョン・ポールソンは50%を超えるドローダウンを克服した。有名なペニー株トレーダーのチモシー・サイクスは2007年に彼のヘッジファンドが破産したとき財産のほとんどを失った。エネルギーヘッジファンドの大物であるT・ブーン・ピケンズは次のように言っている――「3回か4回破産したが、幸運にも私はMBA(経営学修士)ではないから、破産したことに気づかなかったよ」。世界記録保持者のダン・ザンガーもまた、「3回か4回」口座資産のすべてを失い、インターネットバブルで記録的なパフォーマンスを打ち立てた後、数カ月で50%以上も失った。伝説の投資家のジェシー・リバモアは、トレードで得た全財産を少なくとも5回は失っている。

 有名な「タートルズ」の一員だったカーティス・フェイスは、「残念ながら、100%以上のリターンは私たちと同じレベルのドローダウンを経験しなければ得られるものではない。確か私の最悪のドローダウンは70%台だったと思う。こんな大きなドローダウンに耐えられる人はそうそういるものではない。ほとんどの人は心理的に大打撃を受けるものだ」と言っている。

 口座の極端に大きなドローダウンは大成功するための布石と考えるのがよい。成功したトレーダーのほとんどはあらゆる困難にもかかわらず、けっして屈することはなかった。彼らは忍耐力があるから偉大なのである。人生にはいろいろな側面があるが、大きな成功を手に入れるためにはあらゆることをやらなければならないと全身全霊で決意するのは、どん底に突き落とされたときだけである。私も私生活のなかで、体重が増えて、生ゴミになったように感じて初めてライフスタイルを変えようと決心した。どん底に落ちることなく内なる情熱を駆り立てるのは難しいのである。

 正式な教育を受ければ生計を立てられるようになるが、あなたに大金を与えてくれるのは独学だ、という言葉がある。大きなドローダウンは世界の最も優れたトレーダーに自分で学ぶことの重要さを教えたことは確かである。

 ほかの人と同じように、私のトレード手法が進化し、立ち直りが早くなったのは、ポートフォリオがドン底に落ち込んだときだった。極端な心理状態と極端な経済状況に耐えることができなかったならば、大きなリターンを得ることはなかっただろう。まったく損をしないなんてことはあり得ないことを私は学んだ。

 必要な学習経験? 重要なのは、経験から学ぶことだけではない。もっと重要なのは、反撃する勇気とやる気を持つことだと思う。

 では私と同じような経験するのを勧めるかと言えば、絶対に勧めない。それは絶対にない。記録を塗り替えることを目指す人々は、しっぺ返しを食らうような水準のレバレッジとリスクをとる。私は次なる大きなスーパーストックの高値と安値は追い続けるが、今は常にリスクを減らし、良いリスク・リワード・レシオで利益を最大化するアプローチを使っている。とはいえ、リスクを緩和しながらも、大儲けになるような株はけっしてあきらめたりはしない。

 私があなたに望むのは、リスクを限定しながら潜在的利益を最大化することである。私の失敗からの教訓を生かし、本書ではこのあとルールを基にしたアプローチについて概説する。このアプローチは、私と同じバカな過ちを犯さないようにするために役立つだろう。


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