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ISBN4-7759-9016-0 C0033
著者 ユウ・キソン(柳基善)
はじめに |
ジャーナリスト 嶌信彦氏の推薦の言葉
国際金融の本はゴマンとあるが、これほどわかりやすく、小説より面白くて読みやすい本を知らない。
人間くさいエピソードが満載で、読み終えたときには金融の本場、シティとディーラーたちの生き様、そして為替取引の全貌を知るだろう。
私の経験では、為替ディーラーという人種はオツムより、からだを使う方を得意と している。彼らは為替という知的ゲームを楽しむというよりは、からだに為替レート を刻んで、長時間寝ないで、耐えることに喜びを感じる人たちである。
為替ディーラーは、瞬間を競う世界で生きているせいか、ディーリングルームでも 自分たちは特別で、傍若無人に振る舞うことも許されていると勘違いしている。それ 故、為替ディーラーの行儀の悪さは、世界的に共通している。 彼らは、言葉遣いは汚い、悪態はつく、大声を張り上げる、電話は投げる、イスも蹴 飛ばす。そして、品がなく、先輩、後輩の区別もなく、彼らは自分が儲けることしか 考えていないエゴイストたちの集団と化すことがある。 こんなディーラーたちの光景を見たら、IQの高いインテリが、彼らを小馬鹿にし、ジョークのひとつを作っても、これは致し方ないわけである。
外国為替市場はスポーツに例えれば、サッカーに似ている。集団ゲームで、活気が あり、ルールは単純で、大勝も大負けもなく、フェアー(?)であり、スピード感が あって、局面がガラリと変化して勝敗が決まることもあるからだ。 為替のディーラーは、風采もサッカー選手に似ていて、私が在籍したロンドンのデ ィーリングルームでは、体のいかつい、ほぼ丸坊主同様の短髪のお兄ちゃんたちが何 人もいた。ディーラー、サッカー選手とも、お世辞にも外見からして賢い人たちには 見えないところにも共通点がある。それでも、ひとりひとりが個性的な彼らは、チー ムプレーに長け、仲間を思いやる良さを持っているから救われる。為替も、サッカー も全世界で行われていて、ルールも単純で、誰もが、いつでも参加できる、飽きない 体力ゲームなのである。
さて、外国為替市場はロンドンが世界の中心である。私が九〇年代後半に五年近く 在籍したロンドンのディーリングルームでは、ヨーロッパ為替市場の一割の取引が行 われており、世界のトップバンクのひとつと言われていた。
ワンフロアーに四五〇人ほどいたディーリングルームの真ん中に、約五〇名の為替 のチームが陣取っていた。そこでは、つかみ合い寸前のトレーダーとセールスたちと のバトルが繰り広げられ、勝負に負けて大の男が号泣する場面も見られた。ヘッジ ファンドが荒稼ぎをし、アジアの中央銀行が必死に自国通貨を防衛する局面も見た。ひとりで何百億円もの利益を出した、名うての個人の為替ディーラーにも出会った。その 場では、相場の巨人、日本銀行もその名を轟かせていた。私のいた”そこ“は、世界 のオールスターが勢ぞろいした、外国為替の「テムズの取引所」と呼ばれるにふさわ しい活気のある舞台であった。 これから、外からはなかなかうかがいい知ることのできない、ロンドンの現場からの 体験的レポートをお届けする。
私は地下鉄セントラルラインで”テムズ“まで通っていた。駅を出ると途中のスタンドで温かいトーストとミルクティーを買い、毎朝七時前には会社に出ていた。
ロンドンで市内観光といえば、バッキンガムパレスやロンドン塔、大英博物館やトラファルガースクエアーが有名である。日本やアジア企業が研修で行うお決まりの市内観光のひとつに「テムズの取引所」の訪問があった。そして、私がその案内役を授かることが多々あった。
通常、ディーリングルームには同じ銀行の職員でもパスがなければ入ることは許されていない。部外者に勝手にディーラーのいない席で取引をされては困ること、重要な顧客情報が漏れるのを防ごうとすることなどがその理由だ。それ故、外部の人がディーリングルーム内に入る場合には事前の許可が必要で、普段は、見学者に守秘義務を徹底させるという条件付きで、立ち入りは許された。
ディーリングルーム内は、為替や資金、債券、先物、デリバティブなど、商品ごとにチームが分かれている。狭い通路を練り歩き英国債(ギルト)のセクション、エマージングマーケット(新興国市場)のデスク、エコノミストやリサーチのデスクなどを、各チームがどういう仕事に携わっているかを説明しながら、案内するのが私の役目だった。
ディーリングルーム内はほとんどがイギリス人で占められていたが、少数の外国人もいた。彼らはアメリカ、フランス、オーストラリア、日本、香港、インド、ナイジェリア、南アなどから来た人たちだ。女性が占める割合は少なく、全体で一割足らずだ。
人員だけで見ると、実態はかなりドメスティックなローカルバンクであった。
こうした雰囲気の中で、アジアからの十数名の団体客がぞろぞろ歩くとさすがに目立つ。周囲の目が先頭を歩くツアー・コンダクターの私のほうへ向けられているのがはっきりわかるので、はじめのころは気恥ずかしく、穴があったら入りたい気分にもなった。
当然のことながら、私が属した為替チームの近くにも立ち寄る。ここに来ると急に様子が変わる。仲間は意地が悪い。いつも陰でクスクスと笑い出し、ヒソヒソと話をし始める。個人主義のイギリス人から見れば、日本人らの団体行動はおもしろおかしく見えるようなのだ。
脂汗をかきながらツアーを終え、顧客を送った後に自分の席に戻ると、早速、団体
客に対する質問攻めと冷やかしに遭う。「どうして今日は誰もカメラを持っていない
んだ」など、日本人を茶化したステレオタイプな質問が必ず来る。冷やかし半分で、
悪気はないようだが、大勢の人の前で恥をかかされているような錯覚に陥る。韓国か
らの団体客を案内した後などは、「韓国人は犬を食うというけど本当か」と真顔で聞
いてくる人もいる。教養ある、わが同僚の質問のレベルはいつも高い……。
これからお話する為替チームは、体格はいいが、精神的には未熟な、高校の体育会 サッカー部の雰囲気を想像していただければ理解しやすいと思う。 東京やニューヨークのディーラーのほとんどが大卒であるのに比べ、ロンドンでは ほとんどが高卒である(もともと、イギリスでは日米と比べ大学進学率は極端に低 い)。十六、七歳から仕事を始め、為替の仕事のみ専門にやってきた彼らは職人気質、プロ意識が特別に強い。チームは年齢差など気にしない、皆が対等の為替職人の集まり だ。
ところで、彼らが使う言葉やアクセントは、出身の階級や地方を反映してか十人十 色で、驚くことに一人一人がまったく違う。地方のなまりや下町言葉もありで、仲間 内の会話ではスラングの嵐となる。それ故、私のほうは何を言っているのかサッパリ わからないので、あまり何を言われてもそう気にはならなかったが。
ともあれ、これからご案内する読者には、そんなまわりの目は気にせず、ツアーを 楽しんで頂きたい。
――相続でもなければ、不動産でもない。
ある男を数千億円以上もの資金を動かせる男に変えたもの。
「ランボー!」。チームの同僚が叫ぶ。
我々が「ランボー」とコードネームで呼ぶ客からのホットラインが点滅している。担当のポールが電話を取るのを見ながら、まわりのものは固唾をのんでポールの反応を見ている。「ドルマルク三百本売りだ!」。最初の注文だ。ドイツ・マルクのディーラーは血相を変えて売りはじめる。一分も経たないうちに、ポールが「ドルスイスも三百本売ってくれ」と来た。そして、最後に「ジョン、ドル円も三百本」と手で売りのサインを出しながら、ポールがドル円のトレーダーのジョンに向かって大声で叫ぶ。
ディーリングルームは瞬間、蜂の巣をつついたようになる。トレーダーたちは数十行の銀行にプライスを取りに行き、顧客から買ったドルを売り捌かなければならない。 プライスが合えばヒットし、次々にカバーをした金額の合計と平均レートが電子ボードに表示される。ほどなくしてすべての金額か、それ以上の金額を売り終えたことが確認される。
「取引所」の主役は顧客である。アジア、ヨーロッパ、中東、スカンジナビア、北米などから、名前を聞けば誰もが知っている「世界中の主要なプレイヤー」が私たちのディーリングルームを舞台にして取引を行っている。 チームでは、顧客名も大声で叫ばれるので、ほとんどの顧客にコード名を付け、情報が漏れるのを予防していた。
レッドとか、ブルーとかのコードネームの中で、「ランボー」は出色であった。実際、名だたる有名プレイヤーをしのぎ、当時、彼はほんの一握りの人しか知らない隠れた大プレイヤーであった。
ドルの三百本とは三億ドル、日本円で約三百六十億円、このときは瞬間にして一千億円ほどの金を動かしたことになる。 当時、「ランボー」は数千億円以上の資金を動かしていたと推定されたから、一回の取引金額としては驚く額ではなかった。そのころ、大手のヘッジファンドでも彼ほどのポジションを持って相場を張っている人はそれほどいなかったように思う。
ところで、そんなランボーがある日、一日にして一躍有名になった。イギリスの日 曜紙サンデータイムズに恒例の「イギリスのお金持ち番付」が発表され、いきなり彼 が一〇位以内に登場したからである。彼の資産は数千億円と推定されていた。高額所 得の理由が、相続や会社、不動産の売却といった理由が多かったのに比べ、彼の理由 は振るっていた。「グッド・インフォメーション」、これだけである。内部事情を 知っている私は読みながらゲラゲラ声を出して笑ってしまった。そして翌朝、オフィスに出るとポールが案の定自慢してきた。「ははっ、キソン、ランボーは俺のことを言っ ているんだよ」。
個人の天才的為替ディーラーも一日にしてなったわけではない。
ランボーは苦労の人だ。レストラン、スーパー、不動産など、ありとあらゆる商売
を手がけ、財を築いてきたといわれている。そうした中で彼が出合ったのが為替のト
レーディングである。
ハングリーな彼はすばしっこくこの市場の妙味を知り、のし上がってきた。彼は少
ない資金でもその何十倍もの取引が可能となる、為替の証拠金(マージン)取引の本
質をよく理解していた人物だ。我々が取り引きし始めたころは、彼はすでに数百億円
の資金を準備できていたと思う。取引金額は証拠金のほぼ二十倍、百億円を準備でき
れば二千億円規模の取引も可能だったわけである。彼自身は、為替の情報を数少な
い、親しい銀行のカスタマーディーラーから得ていた。そして、人に任せることなく、自分自身で巨額の資金を頻繁に売買し、値ザヤ稼ぎを行っていた。
聞くところによると、ランボーはカリブ海の島に住んでいた。ヨットから為替の売
り買いの指示を出すこともまれではなかった。その彼が、我々の銀行のディーリング
ルームにはじめて訪れる機会があった。仲間はどんな人物なのか固唾をのんで、彼の
登場を待ち受けていた。
ところが、これがまったくの拍子抜けに終わった。ポールが先導して、ランボーと その秘書を誘導してディーリングルームに入ってきた。年の功は六十歳前後と見受け られ、背は百六十センチぐらい。ややうつむき加減でとぼとぼと歩いてきたから、皆 が一瞬、目を疑った。対照的に、秘書の女性は堂々としていた。
日本でいえば、ランボーは大田区にある中小企業の社長で、作業着がよく似合いそ うな善良なおじさん、というところか。八十年代末、為替の世界で一時期、一世を風 靡した阪和興業の北社長に似てなくもなかった。その日はチームメイトの誰もが、自 分たちが勝手につけた「ランボー」とのイメージの格差に愕然とした。
ほどなくして、彼の名前は市場に知れ渡るようになった。目立たぬようにして、巨
額の資金を動かす彼の神通力も通用しはじめなくなってきた。私の銀行との取引もそ
のうち終えてしまった。彼も表の舞台に出てきたかったのだろう。後に、新聞に彼が
著名なオークションハウスを買ったとか、イギリスのサッカーチームを買収したとか
いう記事も出ていた。明らかに、彼の関心は為替で金を稼ぐことから、名声を求める
ほうへと変わっていた。
私が直接知る限り、純粋に為替のディーリングで推定「数百億円」単位の収益を上
げていたのはランボーだけである。有名になった後は、そのうちのいくばくかは吐き
出したかもしれないが、大変な成功者だった。
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