本書でダニエル・ドレズナーは、21世紀の言論市場を内側から観察し、私たちが現在の場所にたどりつくまでの足跡を描き出す。博覧強記の公共知識人とは対称的に、思想的リーダーはたった一つの思想を売り込むことで国民の注目を集める。「2025年までに世界から貧困をなくす」という例からもわかる通り、そのアイディアは壮大で非常に野心的だ。しかも彼らは、大学の教授や在野の知識人といった普段、高級誌で議論を交わしている知識層――いわゆる言論市場の「門番」を飛び越えて、政治家や役人、あるいは国民に、直接自分のアイディアを届けることに成功している。思想的リーダーがうまく批判を避けている一方で、今世紀に入ってから公共知識人による批判の影響力は落ちている。
ドレズナーによれば、思想界の様相を大きく変化させているのは、権威への信用低下、政治的二極化、経済格差の拡大という3つの要因であるという。まず、権威への信用低下が思想的リーダーという新種の知識人に扉を開いた。また、政治的二極化はこれまでの歴史のなかでもたびたび起きてきた現象ではある。しかし、知的独立心の強かった従来の知識人とは異なり、現代のインテリは、イデオロギー的に自分たちと同質なパトロンを探して後援を取りつけ、思想性を打ち出したシンクタンクで働くのにためらいを覚えないために、過去に類を見ない状況が出現している。そして、最大の要因である経済格差の拡大によって、圧倒的な財力を持つ現代の富裕層は、知識人や団体に資金を提供し、自分たちの考え方と整合する思想を語らせる傾向がこれまで以上に強くなった。こうした流れは、大学やシンクタンク、民間企業にも破壊的な効果をもたらしている。もちろん現代の言論市場には負の側面も存在する。しかしドレズナーは、広くアイディアを発信し、新しい発想に飢えている国民を満足させる現在の変化を肯定する。金融市場と同じく、言論市場も狂乱やパニックに陥りやすい。現在の思想界の状態に不満を持つ人も、そうでない人もいるだろうが、本書はあらゆる読者にとって、いまのアメリカ、そして欧米における知識人への認識を変える一冊になるはずだ。
原著『The Ideas Industry: How Pessimists, Partisans, and Plutocrats are Transforming the Marketplace of Ideas.』
解説―――佐々木俊尚
本書はひとことで言えば、「知」や「知識人」が社会とどんな関係を持ってきて、どう変わろうとしているのかを考え抜いた書物である。重要なキーワードや概念がたくさん提示されている。
その中でもとびきり重要なのは、「知識人(public intellectual)」と「思想的リーダー(thought leader)」だ。前者はいわゆるインテリだが、大学の象牙の塔に籠っているだけでなく、一般の人にも功績や著作などがよく知られている著名人を指している。後者の思想的リーダーはちょっとわかりにくい。最近の日本でよく使われている言葉に沿えば、オピニオンリーダーやインフルエンサーなどが近いかもしれないが、もっと強い意味を持っている。ひとつの大きな世界観を持ち、この世界観を書籍やマスメディアのみならずSNSや集会、イベントなどあらゆる経路を使って発信していき、世界を変えていこうという信念を持って強い影響力を発揮する伝道者たちである。
マーケティングの分野では、カタカナそのままで「ソートリーダー」という用語も使われている。特定の分野で影響力が高く、なおかつ信頼されている人を意味し、商品やサービスを消費者に使ってもらうためには、まずソートリーダーにアプローチするのが大切である、というような意味だ。インフルエンサーというとテレビタレントなど知名度が高い人のことを指す場合が多いが、ソートリーダーは知名度だけでなく、全人格的な高い信頼も誇るという意味合いがある。
本書では、思想的リーダーはマーケティング分野とは少し異なる意味合いで使われていて、「知的伝道者(intellectual evangelist)」と定義されている。では知的伝道者とは何で、知識人とはどう違うのか。ここが本書の重要な鍵になっている。
知識人はどちらかと言えば評論家的で批判的で、懐疑的な考え方をする。悲観主義者でもある。政府が何かしようとすると、問題点を指摘するようなタイプ。要するにわたしたちが「インテリ」という言葉でイメージする、青白い顔で髪がほつれた人だ。たいていの場合は大学や論壇などにポジションを持っていて、伝統的な権威を背負っている。
いっぽう思想的リーダーは、他人を評論して疑問を呈するのではなく、独自の思想や世界観をつくりあげて、その世界観を布教していくような人のことを指している。世界観の伝道者であり、思想の指導者。知識人ほどには知識を持っていないことが多いが、自分の思想には絶対的な自信があり、その思想が世界を変えると信じているような人だ。そして彼らは、もはや古い権威にはとらわれていない。
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20世紀の社会というのは、ものすごく単純な構図にしてしまえば、権力と知識人のパワーバランスによって成り立っていたと言えるだろう。政治家や官僚、大企業といった権力はつねに暴走し、間違った方向に突っ走りやすい。それを冷静に批判し、誤りを指摘し、方向を正すのが知識人の役割だ。だから知識人は少々ひねくれ者で性格がゆがんでいても、許容されていたわけだ。
ところがアメリカでは知識人の役割はだんだんと後退するようになり、代わって思想的リーダーが台頭してきた。その背景として著者のドレズナーは3つの要因を挙げている。第1に権威の信用低下、第2にアメリカの政治の二極化、第3に経済格差の拡大。
それぞれ説明しておこう。第一の権威の信用低下は、知識人だけでなく、政府や官僚、専門家、そして新聞やテレビなどのマスコミの権威にも当てはまる。どうしてこんなことが起きているのだろうか。2つの要因がある。ひとつは、1990年代に米ソ対立の冷戦が終わり、それ以前の西欧的イデオロギーがうまく機能しなくなり、答えが見つけにくくなったことだ。そしてもうひとつは、SNSの普及である。本書では、ネイバル・ウォー大学の教授であるトム・ニコルズのこんな意見が紹介されている。
「いま世界で『専門知識の死』が進行しつつあるのを、私は心配している。グーグルやウィキぺディア、ブログの氾濫が、専門家と素人、教師と生徒、知っている人と知らない人――つまり、ある領域で実績のある人と、まったく実績のない人の区別を崩壊させている」
もちろん、これは決して悪いことではない。従来の権威がつねに正しいことを言うとは限らず、権威の誤謬をネット上の匿名の人が指摘するというようなことは日本でもよく見られる。知のフラット化が進むことで、政治家やマスコミの間違いをただすことが以前よりも容易になったのは間違いない。
しかし一方で、専門家の意見をネット上の罵声が封殺してしまうというようなことも起きている。たとえば日本では、東日本大震災とその後の原発事故についてさまざまな議論が行われたが、専門家の立場から放射線の危険について冷静な意見を表明した物理学者や医師らに対して「御用学者」という非難が殺到し、さらには「御用学者リスト」がネット上で作られて閲覧されるという事件があった。これが学者や医師を萎縮させ、冷静な議論をしにくくしてしまったことは多くの人に指摘されている。
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そもそも、こうした「知の権威」とはどのようにして構築されてきたのだろうか。その起源を探していくと、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ市民社会の成立にまでさかのぼることができる。
それまで政治は、王の宮廷で行われていた。ところが資本主義が進んでブルジョワジーと呼ばれる新しい富裕層が台頭してくる中で、宮廷の外側で政治の議論が活発になってくる。イギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェ、サロンで政治の討論が行われるようになり、これが公論の場を生み出し、世論形成の場になっていったのだ。これが市民社会と民主主義の始まりとなった。
ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスは、そのころのコーヒーハウスでの討論には次のような基盤が存在していたと指摘している。最初に、討論への参加者がどのような社会的地位を持っているのかは度外視されていたこと。次に、それまで教会や国家によって当然のことだとされていた問題も、タブーなしに自由に討議されたこと。最後に、誰もが自由に、討論に参加できたこと。
ハーバーマスのこの論考からは、そもそも近代の知そのものが、それ以前の宮廷や教会という古い権威を否定したところから始まったことがわかる。このような自由でオープンな知がジャーナリズムや近代批評を生んだのだ。しかしこのような近代的な知は、実は内部に弱さをはらんでいた。コーヒーハウスの討論は、「参加者全員が討論をする能力を持っている」というエリートの等質性を前提にしていたからだ。
だから十九世紀の後半、産業革命の進展によって貧しかった労働者階級が力を持つようになってくると、全員で議論するサロン的民主主義という枠組み自体が困難になってくる。
この時代の特徴は、誰が労働者階級を取り込むのかという大きな戦いが繰り広げられたことだ。最も力を発揮し、猛威をふるったのはマルクス主義である。それまでのブルジョワジーと貴族が支配している政党政治を廃止させ、労働者が権力を奪って労働者中心に国を作り、国が強制的に富を分配させるべきだとマルクスは考えた。欧州でも日本でも、マルクス主義勢力が支持を伸ばし、伝統的な市民社会の支持者たちを脅かした。不安を感じた国家は弾圧し、弾圧された側のマルクス主義者も武装したりテロに走ったりと、力で対抗したのだった。だがこの戦いも、労働者の収入が増え、豊かな中流層に変化してくると、終わりを告げる。暴力革命ではなく生活の安定を人々は求めるようになり、やがて彼らも政治に招き入れられ、19世紀の終わりごろから普通選挙が施行されるようになった。さらにこの時期、マスメディアが台頭してくる。新聞、それに続くテレビなどのマスメディアは「新聞に寄稿できる人」「テレビに出られる人」という新たな知識人像をつくり、マスメディアが大衆を代弁するという権威を成立させていった。
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次いで20世紀前半は、2度の大きな世界大戦があり、大きな権力が生まれやすい時代を迎えた。国民すべてが参加する総力戦を戦うためには、パワーを国家に集中させることが必要だったのである。同時に、総力戦のためにはすべての産業が効率良く戦争のために生産しなければならない。だから中小企業をどんどん合併させて、大企業に集中させた。
大衆の政治参加と、マスメディアによる代弁。そして強い権力。これが20世紀の基本的な政治の枠組みである。だから政治権力に対峙し、大衆を代弁してマスメディアに登場する知識人という存在には非常な有効性があった。
しかし産業革命と高い経済成長、そして冷戦という20世紀を特徴づけた潮流が終わるのとともに、この枠組みは機能しなくなってきている。そして同時に、言論人の役割も変わってきた。
そこで旧来の20世紀型知識人の代わりに台頭してきたのが、21世紀型の思想的リーダーだったということなのだ。
本書では、一般的には知識人と見られているフランシス・フクヤマやジョン・ミアシャイマー、ジョセフ・ナイ、サミュエル・ハンティントンといった学者を思想的リーダーにカテゴライズしている。彼らは従来のような批評的な知識人ではなく、新しい世界観や思想を提示して、それを世界に広めた人たちだからだ。フクヤマは「歴史の終わり」で、冷戦後の世界は恒常的に安定し、大きな変化はもう起こらないだろうと予測した。ミアシャイマーは、冷戦後は国際秩序が変わり、ふたたびリアリズム的な外交がやってくるだろうと解いた。ナイは「ソフトパワー」という新しい概念を示したし、ハンティントンは「文明の衝突」でイスラムや中国などの文明が西欧と対立する新たな未来像を描いた。彼らはいずれも、冷戦後の新しい世界観を提示して、21世紀への道筋を切り拓く思想的リーダーとして期待されたのである。本書は書いている。
「ソ連の崩壊によって、封じ込め政策が過去の遺物となり、政府は新たな思想を求めるようになった。そのため知識人たちは、冷戦後の世界を論じ、アメリカの外交政策を立案するために懸命の努力を始め、学術界では数多くの思想的リーダーが国際政治に関する新説を発表した」
もちろん、世界はフクヤマの言うようにはならなかったし、ハンティントンの文明の衝突論もいまではかなり怪しくなっている。しかし20世紀的な枠組みが終了している以上は、知識人から思想的リーダーへの流れは押しとどめられない。
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話を少し戻そう。先に書いたように、本書では思想的リーダーの台頭の要因として、権威の信用低下とアメリカの政治的二極化、経済格差の拡大の3つを挙げている。ここまで権威の信用低下について述べてきた。
1つ目の政治的二極化は、いまや日本も含めた先進国全体の深い病根だ。アメリカではドナルド・トランプの大統領当選と、その後のリベラル派の人たちとの激しい対立劇で鮮明になった。本書では「民主党の支持者は、どの分野においても民主党の掲げる政策を受け入れる傾向にあるし、共和党支持者も共和党の方針について同じような態度をとっている」と指摘されている。これをパルチザン・ソーティング(党派心による整列作用)と呼ぶのだという。対抗する政党への攻撃姿勢もあからさまになってきていて、1994年から2014年のあいだに、共和党も民主党も向こうを「国益に対する脅威」と考えるようになった党員は倍以上に増えているという。
日本でも似たようなことになっている。ツイッターなどのSNSでは、自民党支持者と反自民党の人たちが罵り合っているのを日常的に目にするようになった。国会の場でさえも冷静な議論は遠ざかり、互いに相手を詰問し、罵り、攻撃するようなことが当たり前になっている。
本書でドレズナーは、この両極化が思想的リーダーに有利な状況を生み出すと指摘している。なぜなら思想的リーダーは信念が強く、絶対的だからだ。彼らは批判されても、その批判を一蹴し、逆に自分の支持者たちに向かって「私は正しいのに、敵から攻撃されている」と訴えて、敵との戦いと自分への新たな称賛を呼びかける。こういう姿勢は、党派的なものときわめて親和性が高い。日本でもツイッターなどを見ていると、こういう党派的な戦いを前面に押し立てている著名人もいて、思想的リーダーのような方向の人たちがたくさん現れているのを見ることができる。
一方で伝統的な知識人は懐疑的なので、同じ党派であっても批判の対象にしてしまうし、つねに何かを批判するようなポジションは党派的なものとは合わない。知識人は、党派の前では消えゆくしかないのである。
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第3の経済格差の拡大。これがなぜ思想的リーダーの隆盛につながるのかというのは、日本からは少しわかりにくいだろう。なぜなら日本では、アメリカほどには富裕層が分厚くないからだ。
アメリカでは20世紀の終わりごろから格差が著しく拡大している。特に富裕層への富の集積は圧倒的で、たとえば企業の経営者と平均的な従業員の賃金の格差が大きく開いている。その差は1960年代には24倍程度だったのが、2000年代には200倍ぐらいになっているという数字もある。日本では東証一部上場企業の社長でも平均年収は3000万円程度しかなく、一般的な労働者との差が10倍ぐらいしかないことを考えれば、アメリカの格差は驚異的である。
そしてこうした富の集中は、思想や言論にも大きな影響をもたらす。一般的に言えることだが、成功した経営者は自分の成功を運が良かったとか他人から助けられたとは考えず、自分ひとりの力で成し遂げた偉業であると捉えがちである。だからこうした人たちの思想はひとりよがりになりがちで、貧困層への思いやりも乏しくなる。彼らが貧困になったのは、自己責任であると考えてしまうからだ。そして政府が貧困対策や福祉に介入することを喜ばず、小さな政府を求め、リバタニアリズム(自由至上主義)に傾斜することが多い。
本書には、ライターのグレッグ・フェレンスタインがシリコンバレーの創業者100人以上を対象に行った調査が紹介されている。それによると、彼らの多くは既存の政策を改善するより、始めから政府の干渉をまったく受けない解決策を好むのだという。また、電気自動車テスラの経営者として知られるイーロン・マスクがディナーの席で、自身の母国である南アフリカの貧困など「たいした問題ではない」と発言したという話も出てくる。
富裕層がリバタニアリズムに偏るのはしかたない部分もあり、日本でもそういう経営者は少なからずいる。しかしアメリカの問題は、彼ら富裕層が非常に分厚く、おまけに莫大な金を背景に思想的リーダーのパトロン的な役割を務めているということだ。本書には、著名な思想的リーダーたちが富裕層向けに講演会をひんぱんに開き、その講演料が1回数百万円から数千万円にも達するという話が出てきて驚かされる。思想の世界でも著しい富の集中が生じているのだ。
こういう豊かなポジションを目指す新進の思想的リーダーたちは、リバタニアン富裕層の後援を勝ち取ろうとする。そうするとどうしても思想の方向性がリバタリアニズムに近づいていってしまう。そしてリバタニアリズムに思想的リーダーが近づけば近づくほどますます富裕層は彼らを強く支持し、お金はさらに回るようになるという循環が起きているのだ。
本書はこう疑問を投げかけている。
「報酬の圧倒的大部分がスーパースターに集中してしまう現代の思想産業では、研究も満足にしないうちに講演活動に乗り出そうとする若手知識人が増えている。現代の思想産業は、スーパースターの座にある者たちとその考えに対して、報酬を与えている。そのような業界は、果たしてスーパースターを制御できているのだろうか。別の言い方をすれば、 言論市場における競争が激しさを増すにつれ、果たして効率は高まったと言えるのだろうか」
日本ではそこまで富裕層が厚くなく、富裕層向けのリバタニアリズム思想市場のようなものも存在しないので、こういう現象は今のところは起きていない。これは僥倖と呼ぶべきかもしれない。しかし日本の場合には逆に、思想がワイドショーや週刊誌のような大衆文化に引きずられている面が少なくなく、これはこれで根深い問題なのだ。
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日本では1970年代ぐらいまでは、「論壇」と呼ばれる言論空間の権威が大きかった。論壇は、伝統的な知識人たちがさまざまな社会問題について論陣を張り、議論を戦わせる場だった。だがテレビのニュースショーに押しやられ、また社会が細分化して知識人があらゆる問題に言及するということ自体が難しくなったこともあり、論壇は80年代後半以降は衰退した。知識人だった大学の研究者は自分の知的分野の範囲内でしか論考を行わなくなり、一方で新聞やテレビのマスメディアはステレオタイプな勧善懲悪に走り、論考を深める作業を怠った。この結果、研究者たちが深めている分析は社会に対して何らの影響力ももてなくなり、一方で影響力の強いマスメディアからは論考が失われるといういびつな状況に陥るという状況になっている。
アメリカのような力強い思想的リーダーはたいして現れず、逆にテレビタレント的な人たちが影響力を無駄に増しているというのが、日本の置かれた言論の状況と言えるだろう。アメリカと日本はかなり状況が異なるが、問題はそれぞれ根深い。
さて、言論がそういう状況になっているところにインターネットがやってきて、問題はますますややこしくなっている。2000年代の最初のころまではネットが言論をフラット化し、マスメディア時代には不可能だったより良い言論の構図になることを期待する人は多かったが、誹謗中傷や荒らし、炎上などの横行もあり、それほど楽観的ではないことをもはや多くの人が認識するようになっている。
インターネットであっても発言者は平等ではなく、リテラシーの高い人と低い人、情報発信能力の高い人と低い人が存在する。インフルエンサーと呼ばれる影響力の大きい人とその他大勢の者たちが同時に存在しているのだ。後者の「その他大勢」はひとりひとりの影響力は小さいけれども、数が増えれば大きな影響をネット空間に与えるようになり、しかもたちの悪いことに衆愚化しやすく、インフルエンサーの意見に簡単に影響される。これを最初に指摘したのはアメリカの政治学者キャス・サンスティーンで、同じような価値観をもった人が同じ掲示板、同じネットコミュニティに集まってしまいがちになるという現象を「サイバーカスケード」と呼んだ。これは党派化に拍車をかけていて、先ほども書いたように、思想的リーダーの力を強める一助となっている。
しかしネットの世界では、思想的リーダーも盤石ではない。ミスを犯せば容易に批判を浴びるし、事後対応を誤ればあっという間に転落してしまう。古い時代のように、言論のコミュニティとその権威に守ってもらえる時代ではなくなっている。
この状況がこの先、いったいどう変わっていくのだろうか。それには末尾の章「結論」に書かれていることをぜひ読んでいただければと思う。わたし自身に関していえば、個人的には著者のドレズナーが書いた以下の一文にとても勇気づけられたということを、一言つけくわえておきたい。
「持続可能な道を選びたければ、知識人はもっと自分を省みる必要がある。自分に対する厳しい批判にしっかりと向き合わなければならないのである。華やかな栄光と地道な学究生活のバランスを取ることを学ばなければならない」
2018年2月