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ウィザードブックシリーズ Vol.258

ブラックエッジ 資産1兆円の男、スティーブ・コーエン物語 ブラックエッジ
資産1兆円の男、スティーブ・コーエン物語

著 者 シーラ・コルハトカー
監修者 長尾慎太郎
訳 者 藤原玄

2017年12月発売
定価 本体1,800円+税
四六判 並製 496頁
ISBN978-4-7759-7227-4 C2033

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目次監修者まえがき序章 不安

ブラックエッジとは、企業決算や会社の買収情報・新商品・試験結果などの
エッジを事前に知り、超えてはならない一線を超えること

News

スティーブ・コーエンがニューヨーク・メッツを約2500億円超で買収合意と報じられました。(2020.09.14)
インサイダー情報、不正利益、ウォール街最大の容疑者の追跡劇!
読み始めるともうやめられないストーリーテリング!
「マーケットの魔術師」の称号はウソだったのか?
ヘッジファンドの闇

スティーブン・A・コーエンはウォール街を変えた人物だ。ヘッジファンド業界のマネーマネジャーたちは、鉄道を敷設したり、工場を建設したり、新技術に投資することはない。彼らは、投機、つまり市場の騰落への賭けを通じて巨万の富を生み出すのだ。そうすることで、彼らは巨万の富だけでなく、社会全体への大きな影響力を手にすることになる。現在、ヘッジファンドが運用する資産は3兆ドルを超え、業界内でも厳しい競争が繰り広げられているため、トレーダーたちはエッジを獲得するためにありとあらゆることに取り組んでいる。

そのなかでコーエンはもっとも大きな成功を収めた1人であり、業界のだれもが憧れる存在だ。ロングアイランドの中流家庭に生まれた彼は幼いころからウォール街での成功を夢見ていた。高校時代にはポーカーで名を馳せ、ウォートンに進学し、1992年にヘッジファンドSACキャピタルを創設する。彼はこの会社を株式トレードで150億ドルの規模を持つ帝国へと育て上げた。謎に包まれた彼は、コネティカット州グリニッジの郊外にある3000平方メートルもの大邸宅に住み、ヘリコプターで出勤し、世界でも最大級の個人での美術コレクションを持っている。ウォール街ではコーエンは天才と呼ばれ、史上最高のトレーダーの1人と目されていた。

しかし、SACキャピタルが、FBI捜査官、検察官、SECの執行官たちからなる一団による7年間にわたる徹底的な捜査の対象となると、そのイメージも崩壊してしまう。「市場の詐欺師の集まり」であり、見境なく「エッジ」、そしてインサイダー情報である「ブラックエッジ」を追求することを奨励しているとのレッテルを検察に貼られたSACキャピタルは、最終的に起訴され、巨大なインサイダー取引網に関する証券詐欺と有線通信不正行為で有罪を認めたが、コーエン自身は起訴されることはなかった。

本書は、ウォール街にはびこるグレーゾーンに光を当てるものである。コーエンと部下たちを追う政府の内幕へと読者をいざない、また現代のウォール街の頂点に立つ者たちの権力と富について難しい問題を提起する驚愕の実話である。


■著者紹介

シーラ・コルハトカー(Sheela Hkolhatkar)
『ニューヨーカー』の記者。以前は、ブルームバーグ・ビジネスウィークの特集記事担当や特派員を務め、アトランティック、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー、ニューヨーク、タイムなどへ寄稿していた。講演者、コメンテーターとしても活躍しており、ブルームバーグテレビジョン、CNBC、PBS、SBC、NPRなどで、ビジネス、経済、ウォール街、規制、金融犯罪、政治、シリコンバレー、賃金格差、女性問題などさまざまな問題を取り上げている。ジャーナリストとして活躍する以前は、ニューヨーク市に本拠を持つヘッジファンド2社でリスクアービトラージのアナリストをしていた経験を持つ。現在、ニューヨーク市在住(https://www.sheelahkolhatkar.com/、@Sheelahk)


■本書への賛辞

「ブラックエッジは重要な作品であるだけでなく、大変面白く、恐ろしいまでのリアリティにあふれている。シーラ・コルハトカーは、ヘッジファンド業界ならびにウォール街で伝説ともなった富の裏にある不正行為の数々を暴き出した。本書は、読み始めたらとまらなくなる」――ジェイン・メイヤー(『ダーク・マネー』[東洋経済新報社]の著者)

「ブラックエッジは、連邦政府が著名なターゲットをどのように追いかけたか、そしてそれと同じく重要なことに、現代のウォール街がどのようなことをしているかを暴いた傑作とも言える画期的なリポートであり、素晴らしい物語である」――ジェフリー・トービン(『ザ・ナイン――アメリカ連邦最高裁の素顔』[河出書房新社]の著者)

「テンポ良く、機知に富んだ本書は読者の心をつかんで離さないであろう。また、金融制度の腐敗を白日の下にさらした、当代最高の暴露本でもある。必読の1冊だ」――デイヴィッド・グラン(『ロスト・シティZ』[NHK出版]の著者)

「本書は、伝説のトレーダーであるスティーブ・コーエンをインサイダー取引で捕らえようとする政府の試みと、それを逃れようとするコーエンの真実の物語である。深淵なる調査と一流の筆力をもって、シーラ・コルハトカーがウォール街でもっとも謎に包まれ、またもっとも興味深い人物に新たな光を当てている」――ベサニー・マクリーン(映画『エンロン――巨大企業はいかにして崩壊したのか』の共同原作者)


■目次

本書に登場するNYSE銘柄
エラン社の株価と出来事
(現在は上場廃止)

エラン社のチャート
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序章 不安

パート1
第1章 金、金、金
第2章 コーエンが欲したもの、手にしたもの
第3章 殺人打線

パート2
第4章 リックカフェでギャンブルをするようなものだ
第5章 最先端の機密情報
第6章 利益相反
第7章 伝説となりしこと

パート3
第8章 情報提供者
第9章 王たちの死
第10章 オッカムのカミソリ
第11章 難航不落
第12章 クジラ
第13章 カルマ
第14章 救命ボート

パート4
第15章 正義
第16章 判決

エピローグ
謝辞

付録――登場人物一覧
登場人物一覧(姓のみの五十音順)


■監修者まえがき

 本書はヘッジファンドの勤務経験を持つジャーナリスト、シーラ・コルハトカーによる“Black Edge : Inside Information, Dirty Money, and the Quest to Bring Down the Most Wanted Man on Wall Street”の邦訳で、ここで言うブラックエッジとは、非合法のインサイダー取引によるエッジを指す。これは、世界最大級のヘッジファンド、SACキャピタル・アドバイザーズが犯した一連のインサイダー取引をめぐる、SACとFBI(米連邦捜査局)やSEC(米証券取引委員会)の攻防を描いたドキュメントである。だがその結末は釈然としないもので、インサイダー取引の起点となったアナリストは有罪となり刑務所に行くことになったが、本来最も責任を問われるべきSACのオーナーであるスティーブ・コーエン自身は逃げ切ることに成功している。その後、SACは閉鎖されたが、組織はコーエンの資産を運用するファミリーオフィス(ポイント72アセット・マネジメント)として再編され活動を継続している。

 ところで、読者の方はインサイダー取引など自分とはまったく関係のない世界の話だと思われることだろう。確かに普通の生活を送っているかぎり、たとえ望んだとしてもインサイダー情報など得られるものではないし、そもそも分別のある人間ならばそんな割に合わない危険な行為はしないだろう。しかし、だからと言って安心することはできない。随分前のことになるが、私が勤務先で、ある新興国の大手銀行の幹部の訪問を受けたときのことだ。彼は自慢げに、「自分の国では銀行による資産運用ビジネスの兼務が認められている。だから銀行部門からの情報によるインサイダー取引でわれわれは利益を上げている」と語ったのだ。私が驚いて、「あなたの国ではそれは合法なのか?」と聞くと、「もちろん違法だが、だれも法律など守ったりしない」と返された。さらに私が、日本ではそれは絶対に許されないことであり、当社としては違法行為にかかわるつもりは一切ない、と伝えると、彼は不満げな表情を見せて沈黙した。会合は物別れになり、その幹部とは二度と会うことはなかったが、後にその銀行が運用する投資信託が日本の金融機関で販売されたことを私は知った。純資産残高からみて数万人単位の日本の投資家がそれを購入したと推察される。したがって、もし彼らの順法精神のあり方に変化がなければ、そうとは知らない多くの人々がブラックエッジから得られた利益を手にしたことになる。

 翻訳にあたっては以下の方々に心から感謝の意を表したい。まず藤原玄氏には正確で読みやすい翻訳を、そして阿部達郎氏は丁寧な編集・校正を行っていただいた。また本書が発行される機会を得たのはパンローリング社社長の後藤康徳氏のおかげである。

 2017年11月

長尾慎太郎

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■序章 不安

 二〇〇八年七月のある夜、FBI(米連邦捜査局)の特別捜査官B・J・カンは、デスクに背を丸め、ヘッドフォン越しにある通話を聞き入っていた。外はすでに暗くなっていたが、まだ夕食を済ませていない。腹が鳴っていた。

 「ラジ、ちゃんと聞いてる。ちゃんと、やってよ」。女は、優しいハスキーな声で話している。

 「分かってるよ」と男の声が答える。

 「彼らは、ガイドダウンする予定だわ」。ガイド・ダウン、これが、企業が収益の下方修正をすることを示すウォール街の用語であることをカンは知っていた。確実に悪いニュースである。ここで言われている「彼ら」とはマサチューセッツ州ケンブリッジを本拠とする八億ドルのインターネット企業のアカマイ・テクノロジーズのことである。「仲間から電話があったのよ。彼とは波長がぴったりなのよね」

 「空売りしよう、それで良いな」。男が答える。

 「ちゃんと乗ってね。私たちはチームだからね」と女が満足げに言う。少なくとも、この時点では女がセックスの話をしているのではないことはあきらかだ。お金の話である。「これで行きましょう。売り続けてね。毎日よ」

 だれだ、この女は。カンは一人考えた。彼女の声は、どこか現実離れして、いわくありげだ。カンは耳を澄まし、メモを取る。彼はFBIの「通信室」にいた。ロウアーマンハッタンのフェデラルプラザ二六番地にあるFBIニューヨーク支局本部の二四階、デルの古びたコンピューターが四〇台設置され、不似合いなオフィス家具が並ぶ、窓のない密室である。一方の壁には金属製の棚が置かれ、そこにはグラノーラのバーやゴールドフィッシュのクラッカー、キットカットなどが置かれている。毎日、この部屋で電話を傍受しながら何時間も過ごす捜査官たちの腹ごしらえ用である。

 盗聴などくだらない仕事だと思われがちだが、カンはそうとは考えていなかった。要は忍耐力の問題なのだと。つまり、粘り強く取り組めば、必ず報われると考えていたのだ。今から数カ月前の三月七日、連邦判事はカンにあるプレゼントを授けた。ラジ・ラジャラトナムという名のウォール街の大物の携帯電話を傍受する許可が与えられたのだ。以来、カンは通信室に文字どおり住み込んで、巨大なインサイダー取引の証拠を集めていた。彼は、過去二年間取り組んできたような、ちっぽけな、小者による証券犯罪を追っているのではない。彼は、ラジャラトナムのような大物、金融界の重要人物を押さえようとしているのだ。

 七〇億ドルの規模を誇るヘッジファンドであるガレオン・グループの共同設立者で、五〇歳になるラジャラトナムは、ウォール街でももっとも名を知られたトレーダーの一人である。その一因は彼のサイズにある。デブで、派手で、無類の大食漢なのだ。彼は食べることと、お金を使うことが大好きで、自分の誕生日に七〇人の友人とケニアにサファリに出かけたり、ビスケーン湾のスター島で行われたスーパーボウルのパーティーに二五万ドルを投じたりしている。韓国移民の子として厳格に育ち、黒髪を短く刈り込み、コンクリートブロックのような堅物であるカンとは好対照である。ラジャラトナムが事あるごとにおしゃべりし、取引し、自分の並外れた能力を吹聴して回る一方で、カンは物静かで、本当に必要なときにしか口をきかない努力家である。FBIでもっとも親しい同僚ですら、彼の個人的なことはほとんど知らなかったくらいである。

 あの電話から六日後、アカマイが次の決算発表は期待にそぐわないものとなると全世界に向けて発表するのをカンは目撃する。株価は、三一・二五ドルから二三・三四ドルまで下落した。一方で、八七万五〇〇〇株を空売りしていたラジャラトナムは、一週間で五〇〇万ドル超を稼ぎ出すことになる。彼にインサイダー情報をもたらした女、ダニエラ・チエシという名のトレーダーは、二五〇万ドルを稼ぎ出していた。カンは、この女が、アカマイが公表しようとしている価値ある情報をどこで入手したのかを知るために、彼女の通話記録の提出を求めた。彼女の通話記録を調べていくと、彼女がラジャラトナムに情報を提供する直前にアカマイの経営幹部と話をしていることが明らかとなった。

 「しゃれた方法でやるんだな。そうやってコネを生かすんだな」と、後にラジャラトナムはインサイダー情報のお礼を伝える電話のなかでチエシに話していた。

 チエシはため息をつく。「征服行為ね」

 ラジャラトナムは、アカマイに関する極秘のインサイダー情報を入手し、それに基づいて取引し、利益を獲得する、というあきらかな違法行為を行ったことが記録に残っているのだ。暗号や暗示的な表現が用いられたわけでもない。すべては完全に提示され、刑事告発を行うに十分である。電話があったのが七月二四日の夜で、ラジャラトナムは翌日には一三万八五五〇株を空売りし、株価の下落に賭けた。そして、七月三〇日にニュースが報じられるまで空売りを続けたのだ。この証拠だけでも、ウォール街でもっとも成功したトレーダーの一人は刑務所行きである。カンは興奮を抑えられなくなっていた。ラジャラトナムとチエシがこれほどさりげなく、あからさまにインサイダー取引をしているのであれば、ほかにも余罪があるはずだ。

 ラジャラトナムの電話は、朝、市場が開いたころがもっとも忙しい。カンは早めに傍受して耳をすませた。ラジャラトナムは、友人や知人に電話をかけ、噂話をかき集める。彼が情報交換する相手には、すでにハイテク産業やヘッジファンドからは身を引いたウォートン時代のクラスメートもいる。彼らの多くがラジャラトナムから小遣いをもらっているのだ。カンは、ラジャラトナムがいまだ公表されていない業績発表や買収案などの情報を収集し、それに基づいて何百万ドルもの株式を取引していることを観察していた。その後、数カ月のうちに、カンはラジャラトナムの友人の通話も傍受するようになる。

 彼や、傍受を行っていたほかのFBI捜査官たちは、自分たちが耳にしたことに衝撃を受けていた。これがウォール街の普通の振る舞いなのか。インサイダー情報はこれほど簡単に入手できるのか。彼らは金融界で不正を見るのには慣れていたが、これらのやり取りはあまりにあからさまで、違法であることは言うまでもないが、あらゆる方向に広がっているように思われた。インサイダー取引を行う一団を見つけると、それは必ずほかのグループとも重複し、追いかけるべき新たな容疑者の一覧が出来上がるのだ。問題はラジャラトナムなどよりもよほど大きなものである。それは、巨大かつ複雑なネットワークなのだ。

 通話記録を調べ、聞き込みの資料を見ていくと、一つのヘッジファンドに行きあたる。SAC・キャピタル・アドバイザーズ、である。カンは、詳しく調査することに決めた。

 サンフランシスコ南部、エンバシー・スイーツの看板が頭上に現れたころ、B・J・カンは駐車場から引っ張り出した中型のレンタカーのハンドルを握り、クパチーノに向けて南下していた。およそ四〇分後には静かな通りに面したベッドルームが三つある家の前に到着する。彼と、その隣に静かに座っているパートナーは前夜、長い時間をかけて、これから向かう目的地に到着し、ドアをノックした場合に起こると予想される幾つかのシナリオをリハーサルしていた。目指す男が家にいなかったらどうするか。彼が失せろと言ったらどうするか。拳銃を持っていたらどうするか。あり得ないことかもしれないが、あらゆる可能性に備えておかなければならない。

 これは二〇〇九年四月一日のことで、太陽は傾き始めていた。カンと、彼が自分の「ウィングマン」と呼ぶもう一人の捜査官であるトム・ズカウスカスは車を降り、ドアまでの道を進む。ドアをノックすると、黒髪の男が一人現れた。

 「アリ・ファーか」とカンが尋ねる。男はうなずいたが、戸惑ってもいた。カンは、ジャケットからIDカードを取り出し、男の鼻面に掲げる。「私の名前はB・J・カン、FBIだ。インサイダー取引のことで話がある」

 彼は一呼吸おいて、IDカードをしまった。

 ファーは、過去に行ったいくつかの行為によって難しい立場にあること、しかしそれは解決可能であることをカンが説明する。カンとファーは互いに助け合える立場にあるのだ。ファーの妻、二人の娘、母親、そして義理の母親は背後で小さくなって聞き耳を立てている。「あなたが、ガレオンのラジ・ラジャラトナムのもとで働いており、インサイダー取引に関与していたことをわれわれは知っている。あなたの記録があるのだ」とカンが言った。

 記録だと。

 そして、カンは音声録音機のスイッチを入れると、ラジャラトナムにセミコンダクター企業のインサイダー情報を提供するファーの声が流れた。録音が流れるに従い、ファーは言葉を失っていった。

 ファーは二〇〇八年にガレオンを去り、友人で、「C・B」の名でだれもが知るリチャード・クー・バン・リーとヘッジファンドを立ち上げた。リーは、かつてはSACキャピタルで働いていたハイテク分野のアナリストである。カンは、世界最大のヘッジファンドの一つであるSACに、ファーとリーの助けを借りて接近することを望んだのだ。カンは、ファンドのこと、そして謎に包まれた創業者のスティーブ・コーエンのことをどんどん学んでいった。ウォール街のほかのトレーダーたちに言わせると、コーエンはあらゆる取引で「常に正しい側についている」と言うのだ。これは少なくとも表面的には不可能な話である。コーエンがどうしてそれほど一貫して、たくさんのお金を稼ぐことができるのかは業界のだれにも理解できなかった。それゆえ、競合たちはうらやみもし、また疑いもしたのだ。ガレオンとSACで腕を磨いたファーとリーは、スヘリックス・キャピタルと名づけた自分たちのファンドを投資家たちに売り込むにあたり、自分たちはハイテク企業の経営陣と関係を有しており、それゆえに有益な情報が手に入るのだと喧伝していた。カンはそのすべてを把握していたのだ。彼が言いたかったのは、「ダーティーで、重要なヘッジファンド」「時間をかけて取り組むに値しないダーティーなヘッジファンド」、そして「重要でないヘッジファンド」の違いを自分は理解しているということだ。彼は、FBIの同僚に対し、ラジ・ラジャラトナムやガレオンを超えて、コーエンのようなより大きく、より強力なターゲットの捜査を進めるべきだと主張していた。人脈も豊富で、企業内部から直接的にインサイダー情報を入手しているファーやリーは第一のグループ、それ自体追いかける価値のある存在とみなしていた。しかし、カンにとって彼らはより大きな獲物への通過点にすぎなかったのだ。カンがやるべきことは、彼らを転ばせることである。

 ファーについて言えば、FBIの協力者となる可能性が高いとカンは考えていた。彼は、家族にとって最良のことをしようとする善人だと見ていたのだ。

 「子供たちまで取り調べられたいのか」とカンが尋ねる。

 自分の申し出こそが最良の選択なのであるから、よく考えるようファーに伝えた。つまり、刑務所に行くよりもよほど魅力的ということだ。もしファーが正しい選択をしなければ、次にFBIの捜査官が彼の家に現れるときには逮捕されることになるわけだ。「このことはだれにも話すな」と、カンはさよならを言う前に付け加えた。「われわれは引き続き監視している。お前が何をしようと筒抜けなのだ」。そして、捜査官たちは車に戻っていった。

 その夜、ファーは悩んでいた。彼は眠ることができなかった。カンが警告したにもかかわらず、ファーはパートナーであるC・B・リーに電話をかけた。留守番電話に切り替わる。「FBIがわが家にやってきたぞ」とファーは話し、乱暴に電話を切った。

 FBIにとっては、捜査や傍聴のことがヘッジファンド業界に漏れ伝わらないようにしなければならない。情報の漏えいを防ぐためにカンはでき得るかぎり早くC・B・リーと話をしなければならなかった。リーは、ファーの家から二〇分ほど離れたところに母親と生活しており、二日後、カンは彼に会いにいった。リーが応対に出ると、カンはスフェリックスでインサイダー取引が行われていることは知っていると伝えた。

 当初、リーはFBIの質問に答えようとしなかったが、やり取りが終えるころには、彼は協力するようになると、カンが確信するまでになっていた。

 「われわれは互いに助けることができるのだ、お前は正しいことをするのだ」とカンは伝えた。

 SACキャピタルのスティーブ・コーエンのオフィスで電話が鳴った。C・B・リーからである。彼とコーエンはしばらく話をしていなかったのだ。

 「やぁ、スティーブ。僕らはファンドを閉めなければならなくなったよ」リーは努めて平静を装いながらコーエンに伝えた。リーは、アリ・ファーとの利益の分配方法で合意できなくなったので、一緒にはやっていけなくなったのだと説明したのだ。「もう一度、あなたと仕事がしたい」とリーは言った。リーはコーエンのもとで働いていたときの良き思い出を思い返させようとした。リーは、コーエンのコンサルタントとして働き、優れた情報を提供した場合に利益の分配に預かる契約を提案した。彼はいくつかのハイテク企業の名前を挙げ、それらの極秘の社内数字を入手する能力を吹聴したのだ。

 「僕には知り合いがいる。エヌビディアの営業とファイナンスに知り合いがいるから、彼らが四半期の数字を教えてくれる。それに、台湾のセミコンダクター企業にもコンタクトがあるから、ウエハーのデータは手に入るよ」

 コーエンは興味をそそられた。リーは二〇〇四年にSACを去るまでの間、もっとも成績の良いアナリストの一人であり、儲かる取引話を持ってくる信頼に足る人物であったのだ。リーの調査は優れたものであったので、コーエンや部下のファンドマネジャーの一人はその取り合いをしたものだった。しかし、コーエンはうぶではない。注意深くあろうとした。

 「これ以上電話では話したくないね」と彼は言った。

 コーエンは十分に興味を持っていたのであるが、採用の担当者にリーに電話をかけさせ、SACでの仕事に戻るための計画を話させた。この二人の会話は数回に及んだ。

 数週間後、コーエンはC・B・リーを再び雇い入れるつもりだとリサーチトレーダーの一人に持ちかける。このトレーダーは身震いしたが、何も言わなかった。彼は、ラジャラトナムのファンドのガレオンで働いていた友人からリーに関するうわさを聞いていたのだ。それによると、連邦職員が最近、リーとファーのヘッジファンドを訪問しているという。「そこで何が起きているかは分からない」と、三日前にマンハッタンでグループの会食があったときにガレオンのトレーダーが口にしたというのだ。「不気味な話だね」と。

 翌朝、このリサーチトレーダーは勇気を振り絞って、コーエンに語りかけた。この気まぐれな上司が、自分がこれから話すことにどのように反応するか、彼には見当もつかなかった。「まったくの的外れかもしれませんが、連邦職員がC・Bのオフィスに行ったという噂があります。お気をつけになったほうがよろしいかと思いまして」

 「SEC(米証券取引委員会)ということかね」とコーエンが尋ねる。

 「いえ、FBIです」とトレーダーは答えた。

 コーエンは受話器をつかみ、友人の一人に電話をかけた。SACのファンドマネジャーを務めていた男で、リーに近い人物だ。「C・Bが連邦政府に協力しているかもしれないと聞いたんだがね。彼は盗聴器をつけているということだが」とコーエンが伝える。FBIがヘッジファンド業界を捜査しようとしているようにも聞こえる。それがどうなるかはだれも分からない。

 「気をつけろよ」

 これは、ウォール街でも史上類を見ない捜査であった。一〇年の長きにわたり、いくつもの政府機関が、ヘッジファンドに的を絞って一斉にインサイダー取引の捜査を行ったのである。ラジ・ラジャラトナムとガレオン・グループから始まったものではあるが、あっという間に手を広げ、何十もの企業の経営者や弁護士、科学者、トレーダー、アナリストたちが巻き込まれていった。しかし、究極的なターゲットはスティーブ・コーエン、おそらくは史上最強と言えるヘッジファンドのSACキャピタル・アドバイザーズを立ち上げた億万長者である。

 一九九二年、コーエンがSACを設立したとき、一般的な人々はヘッジファンドのことなどほとんど知りもしなかったであろう。ほとんどのファンドは当初極めて小規模で、ウォール街の最大手投資銀行でも満たすことのできないほどの金銭欲を持ったエキセントリックなトレーダーたちが形にとらわれることなく運用していたのだ。彼らは企業文化などには馴染めず、また毎年ボーナスの交渉をすることなどにはまったく興味もない。彼らの多くが職場でもジーンズにサンダル履きである。彼らはそのプライドゆえに、大銀行や証券会社に背を向けるのだ。

 ヘッジファンドというのは、小規模な、ほとんどブティックレベルのサービスで、富裕層が投資を分散させたり、株式市場の浮き沈みから離れて安定的に、適度なリターンを獲得するためのビークルだと考えられていた。その背景になる考え方はシンプルだ。ファンドマネジャーは最良の企業を見いだし、その株式を取得し、一方で、見通しの暗い株式は空売りする、というものだ。空売りとは株価が下落することを期待して行う手法であり、これが洗練された投資家には新たな収益機会をもたらすことになる。株式を借り(費用を払って)、市場で売却し、その後順行すれば、より安い価格で株式を買い戻し、返済するという仕組みである。ほとんどの銘柄が上昇するような強気相場では、買いの利益が空売りによる損失を上回り、弱気相場では空売りによる利益が買いの損失を相殺することになる。買いと売りとを同時に行うということは、「ヘッジ」しているということでもある。この戦略は、株式だけでなく、債券やオプション、先物など世界中のあらゆる市場で取引される金融商品に用いることができる。

 有価証券の価格が上昇を続ければ、空売りでの損失は無限大となり得るので、空売りはリスクが大きいと考えられている。さらに、多くのヘッジファンドがレバレッジを用いる、つまり借り入れた資金を用いて、世界中のさまざまな市場で、さまざまな戦略を通じて取引を行う。そのため、規制当局はもっとも洗練された投資家以外がヘッジファンドへ出資することを禁じている。ヘッジファンドは、出資者を富裕層、つまり理論的には投じた資金を失っても支障がないだけのお金持ちに限定するかぎり、いかなる方法でお金を稼ごうと、どれだけの手数料を徴収しようと自由なのである。

 長い間、ヘッジファンドはウォール街の芝居じみた景気循環とはほとんど無縁の存在であったが、二〇〇〇年代半ばまでには、金融業界の中心的存在となっていた。なかには毎年巨額な利益を上げる者も現れた。時間の経過とともに、ヘッジファンドはその名の由来となった用心深い戦略とは無関係となり、むしろ本質的には何でもできる無秩序な金融機関となっていった。レバレッジを用い、リスクをとることも広く知られるようになったが、それ以上に、ほとんどのヘッジファンドを特徴づけたのは運営する人々が手にする巨額の資金である。彼らが毎年徴収する費用は、「管理報酬」として資産の二%、「成功報酬」として収益の二〇%と手厚いものであった。つまり、出資者に利益をもたらす前の段階で、二〇億ドルのファンドのマネジャーは、運用するだけで四〇〇〇万ドルの報酬を獲得できるわけだ。二〇〇七年までに、ポール・チューダー・ジョーンズやケン・グリフィンなどのヘッジファンドの創設者たちは何十億ドルもの資金を運用し、二万平米もある邸宅に住み、五〇〇〇万ドルもするプライベートジェットに乗って旅をするようになっていた。

 ヘッジファンドで働くことが、ある種のトレーダーにとっては自由をもたらす体験であり、自らのスキルを市場で試すチャンスでもあり、その過程で飛躍的に裕福にもなれるのだ。ヘッジファンドでの職は金融業界ではだれもが羨むものとなる。ヘッジファンドでは巨万の富を得られるので、ベア・スターンズやモルガン・スタンレーなどの確立された投資銀行でのヒエラルキーを上っていくような伝統的なウォール街でのキャリアも色あせて見える。二〇〇六年、ゴールドマン・サックスのCEO(最高経営責任者)であるロイド・ブランクフェインの年俸は五四〇〇万ドルであり、一部では激しく非難されたが、この年の高給ヘッジファンドマネジャー上位二五人のうち、もっとも報酬の低いマネジャーで二億四〇〇〇万ドルであった。上位三人はそれぞれ一〇億ドルを超える稼ぎを上げていた。コーエンはその年第五位で、九億ドルである。二〇一五年までに、ヘッジファンドは世界中で三兆ドルの資産を預かるようになり、二一世紀初頭、富の極端なまでの不均衡を助長することになる。

 ヘッジファンドの大物たちは、線路を敷設することも、工場を建てることも、人命を救うような薬品や技術に投資することもない。彼らは投機、つまり市場への賭けが正しければ、何十億ドルも稼ぐことができるのだ。また、彼らは巨万の個人資産を手にするばかりでなく、政治や教育、美術、プロスポーツなど、自らの関心と資産とを振り向けた社会のあらゆる側面に大きな影響力を持つようになる。彼らは、年金基金や寄付基金などの大きな資金を運用し、市場においても大きな影響力を保持しているので、公開企業のCEOたちも彼らに気を払わざるを得なくなる。つまり、ヘッジファンドという株主を満足させるために短期的な業績に執着せざるを得なくなるのだ。一方で、これらヘッジファンドのトレーダーのほとんどが自分たちを企業の「オーナー」とは考えておらず、さらには長期的な投資家だとも思っていない。彼らの関心事は、買い、利を上げ、売り抜けること、である。

 ヘッジファンドの隆盛と、ウォール街を変えたそのあり方とを一人の人間に帰するとしたら、それはスティーブ・コーエンとなる。彼は、同業者からしても得体の知れない人物であったが、二〇年間にわたり平均して年利三〇%のリターンを上げてきたその業績はもはや伝説である。特に興味深いのは、ジョージ・ソロスやポール・チューダー・ジョーンズなどの著名投資家と違って、彼の業績はよく知られた戦略によるものではないということだ。つまり、世界的な経済のトレンドに賭けるわけでもなく、住宅市場の崩壊を予言したわけでもない。コーエンには、市場がどのように動くかを理解する直観力のようなものがあるようで、彼は、世の中がその業界を再構築しようとするまさにその瞬間に投資し、そしてその優れた能力に対する報いを得てきたのである。彼は、矢継ぎ早にトレードを行い、そのほとんどが同日のうちに終わる。若きトレーダーたちは彼のもとで働くことを望み、裕福な投資家たちは彼の手に資金を預けようとするのだ。二〇一二年には、SACは世界でもっとも業績の良い投資ファンドの一つとなり、一五〇億ドルを運用するまでになっていた。「スティービー」ことコーエンは、ウォール街では神にも等しい存在となっていた。

 大金を稼げるこの新たな方法はあっという間に広がり、何千ものヘッジファンドが創設され、好戦的なトレーダーたちが投資機会を探し回った。競争が激化し、また報酬の期待値も増大するにつれて、ヘッジファンドのトレーダーたちは市場での優位性を獲得すべく手を広げ、科学者や数学者や経済学者や精神科医まで雇い入れるようになる。株式市場のそばまでケーブルを敷設して、取引がナノ秒でも早く執行されるようにしたり、エンジニアやプログラマーを雇って、自分たちのコンピューターを国防総省並みに強力なものにしたりする。郊外に住む主婦にお小遣いを払って、ウォルマートの通路を歩いて、何が売れているかをリポートしてもらったりもする。情報を獲得すべく、駐車場の衛星画像を分析したり、CEOたちを高価なディナーに連れ出したりもする。彼らは、毎日、毎週、毎年のように市場に勝つことがどれほど難しいことかを理解しているがゆえに、これらの行動を取るのだ。ヘッジファンドは、トレーダーたちが「エッジ」と呼ぶものを常に探し求めている。つまり、ほかの投資家たちを出しぬくための情報である。

 時に、このエッジを追い求めていくと、必然的に超えてはならない一線にぶつかり、そしてそれを超えていくことになる。つまり、企業の業績を事前に把握したり、あるチップメーカーが来週買収を仕掛けられるといった情報を得たり、薬品の試験結果をほかに先んじて取得したりといった具合だ。これらの情報は、社内に限られたもので、公表されることはないが、市場を動かすことは確実で、ウォール街では「ブラックエッジ」として知られている。もっとも有益な情報である。

 これらの情報に基づき取引を行うことはたいていの場合、違法である。

 インサイダー取引をしなかったファンドを知っているかと問われれば、トレーダーたちはこう答えるであろう。「知らない。彼らは生き残っていないだろう」と。つまり、ブラックエッジは、一流の自転車選手のドーピングやプロ野球選手のステロイド剤のようなものなのだ。トップの自転車選手やホームランバッターがそれを使い始めたとしたら、周りの人間もそれに倣わざるを得ず、さもなければ敗れ去るだけなのだ。

 自転車や野球と同様に、ウォール街でも審判の日はやがて訪れる。コーエンにたどり着く、ずっと以前の二〇〇六年、SECとFBI、そしてアメリカ司法省は、ブラックエッジを追及するつもりであると発表した。みんながやっていることであるとしても、コーエンこそがその道の第一人者であることはだれもが知っていたのだ。

 本書は、オフィス街にある秘密の部屋やウォール街のトレーディングフロアで繰り広げられた探偵物語である。直観を頼りに、盗聴器をセットし、証人を転がし、本丸にたどり着くまでピラミッド構造を追い詰めていったFBI捜査官たちの物語である。自分よりも二五倍もの年収を稼ぎ出す被告側の弁護士と対峙した、理想に燃える政府の検察官たちの物語である。コンピューターのハードドライブをハンマーで壊し、たくさんの書類をシュレッダーにかけ、投獄されないよう親友にすら食ってかかっていった若きトレーダーたちの物語である。SACのようなヘッジファンドがどれほど注意深く築き上げられ、トップにいる人々が、末端の社員たちの疑わしい取引の責任を回避できるようになっているかを伝えるものでもある。

 そして、ウォール街の頂点に一気に上り詰め、その地位にとどまろうと壮絶な戦いを繰り広げるスティーブ・コーエンの物語である。



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